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前世への旅!? (必ずまた約束の地で) - シリア (終)


シリアからエジプトのカイロに戻った後、頻繁にパルミラの少年 から郵便が届いた。

ところで、当時の少年の推定年齢16-18。一人前の男性のような振る舞いをしようと健気に頑張っていたので、なんだか悪い気がして最後まで実年齢を直接聞けなかった...

でも向こうは私の年齢を知っている。宿に泊まった時、パスポートを提示しているから。


彼はもともと口数の少ない子だった。一緒にいた時はあまり自分自身のことを語ることがなかったのだが、

受け取る手紙/葉書きを読んでいるうちに、彼の生い立ちが何となく見えてきた。

少年はシリア生まれのようだったが、両親はパレスチナ難民のようだった。

イスラエルが建国し、元々その地に住んでいたパレスチナ人が大勢追い出されたのは周知の事実だが、少年の両親もそうだったのだ。

しかし両親は何かで早くに亡くなり、少年はシリア人としてシリアで育った。でも育ててくれたシリア人のことは語りたくない様子だった。

実際、少年は幼い時から働いてきて、ろくに学校にも行けていない。

それなのに英語の読み書きもできるのは、宿泊客ら(ドイツ人と北欧人が多いという)に教わって独学を続けてきたからだという。ドイツ語も多少話せるらしい。



「マダーム、エンティ ミネーン スーリー?」

ある日、いつものようにシリアから届いた私宛ての手紙を預かっていた、アパートの番人が不思議そうな顔でそう尋ねてきた。

「マダムはスーリー(シリア人)なのか?」

....

そんなわけあるわけないじゃないか、とずっこけそうになったが、あまりにもシリアからの郵便物が私宛てに配達されるため、番人はとても不思議に思ったらしい。


たいていの文面はとても素朴で、今日はオリーブがたくさん届いた、先週はフランス人夫婦が泊まりに来た、裏の花が咲いたという、どうってことのないものばかりだったが、非常に心が温まる、微笑ましい...


ある時、私がパルミラの少年宛てにこういう手紙を出した。

「実はそろそろエジプトを引き揚げて日本に戻ろうかな、と思い始めています。どちらにしても、また手紙を出しますね」。


すると、その私の手紙を受け取ったという日に、国際電話がかかってきて

「すぐにカイロに行く!」。


もともとカイロで再会したいとパスポートの申請をしていたらしいのだが、なんにしても

「ええっ!?エジプトに飛んでくるの?」 !!


彼にとってカイロまでの飛行機代はべらぼうに高い。

「いいからいいから。いずれ私がまたそっちへ飛ぶから」

と私は止めようとしたが、

少年はもう航空券の予約を入れてしまっていると言う。実際、本当にすぐにカイロにやって来た。



当日、私はカイロ国際空港まで迎えに行った。

ちなみに到着ゲートにいる大半は自分たちの旅行客を待つ、プラカードを掲げる旅行会社のスタッフか、もしくはガラベーヤ姿のタクシーの運転手たちだった。

パルミラ君が現れ、私がさっと前に出ようとすると、そのタクシー運転手たちが私を押しのけ、ワッと彼を取り囲んだ。

そして

「街の中心部に行くにはタクシーしかないんだ。俺のタクシーに乗れ」

「いいやいいや、俺のタクシーに乗れ。特別に20ドル (←ぼったくり) にしてやる」

「だめだだめだ、俺のタクシーに乗れや」

と、勝手にパルミラ君の争奪戦を繰り広げ出した。


パルミラ君はそばで喧嘩して揉めているタクシー運転手たちをよそにきょろきょろし、そして私がいるのを見つけると、満面の笑顔で手を振ってきた。

「マルハバ!」。



「カイロの空港から街へ行くコツはね、街から客を乗せてちょうどやってきたタクシーをすぐに捕まえることなのよ。

カイロ市内から到着したばかりのタクシーは、空港のごろつきタクシー運転手と違って、そんなに料金をふっかけてこないのよ。」

と空港の外を出たところで私が言い、早速街の方から走って来たタクシーを押さえようとした。

ところがパルミラ君は

「あ、あっちに公共バスが止まっているよ!」

「...」


確かに空港と市内中心部を繋ぐバスが走る停留所はある。そこからバスにのれば、日本円でわずか数十円で市の中心部まで行けてしまえる。

しかしバスはどれもおんぼろで扉がない。扉なんぞついていなのだ。

また走り出すと止まらないから走行中に、乗客は飛び乗り飛び降りねばならない。

さらに大抵いつもバスから人が落ちそうなほど混雑し、その上痴漢とスリとノミだらけだ。

こんなんなので、カイロの公共バスには普通外国人は乗らない。しかしパルミラ君はさっさとバス乗り場へ向かってしまった。

「...」

仕方ない...


パルミラ君は私がダメだ、といくら言っても私の分のバス代までも払ってくれた。

数十円の運賃でも、金銭感覚が大きく違うので、少年には多分数百円ぐらいの感覚だったんじゃないかと思う。

その上、ひとり席に私を座らせ少年は私の真横に、まるで私を守るかのように立った。

2人掛け席に一緒に座ろう、といくらいっても、首を横に振る。彼はとても高潔なモスリムのティーンエージャーだった。


パルミラ君が予約しているいう安宿はタハリール広場のすぐそばだったので、タハリール広場が近づいてきた時、

「バスは停車しないから、ちょっとスピードを弱めたタイミングで飛び降りるからね。ちゃんと私についてきてね!」。

彼はゴックンと唾を飲み込み、真剣な眼差しで頷いた。シリアのバスはちゃんと止まるので、少年にとってカイロのようなバスは初経験なのだろう。


渋滞で速度が落ちた瞬間に

「今よ!」と私が掛け声を上げ、せーので一緒に飛び降りた。びくびくしていたけど、無事下車し終えると少年はホッとした顔で笑った。


ところで、本当はうちに泊めてあげたかった。

この時は、閑静な住宅街にあるそこそこ高級の部類に入る建物(ケーキ屋の真ん前)に暮らしていた上、寝室が三つなので人を泊める余裕もあった。

だけども、それを申し出たら頑なに辞退された。女性の住まいには行けない良くない、と...


パルミラ君が安宿にチェックインした後、ロビーで待っていた私と一緒にエジプト考古学博物館へ歩いて向かった。

距離で言えば目と鼻の先なのだが、如何せん信号があってないような街だ。

物凄いスピードの車がガンガン走って来て、なかなか道路を渡れない。

(↑通行人の道路横断のために、止まってくれる車なんぞ存在しない)


私はすでに慣れているので、うまいことすいすい暴走車の間をくぐり抜けられるが、パルミラ君はおじけつき全然道路を渡れない。

慣れていないのも無理はない。シリアでは、首都ダマスカスでも車の交通量はとても少なかった上、ドライバーにモラルがあったから。

手を繋いで一緒に渡るしかない、と思い私が手を指し述べた。するとパルミラ君は耳まで真っ赤になり、俯いてしまった。

「困ったな、ウ~ン」

と思っていると、見知らぬエジ男が現れ

「渡れないのかい?じゃあ僕の手を握って。Trust me」

と私の手を掴もうとしてきた。

ギィーッ!!!

ぶん殴ってやろうとした時、パルミラ君がさっと私の手を握って道路を走って渡った。正直、この時ちょっとキュンとしました。笑(ちなみに当時の私は二十代半ばぐらい)


博物館に到着し、チケットを買おうとするとまたパルミラ君が

「君の分も僕が払う」

と言い張った。

でもエジプト人なら入場料は数十円なのだが、外国人は600円ぐらいだった。600円というのは、シリアの田舎の少年にはとても高い。もしかしたら3000円ぐらいの感覚かもしれない。

「あなたはシリアから来てくれたのだし、ここは私の住む街だから私が払う。せめて私に私の分は払わせてよ」。

しかしパルミラ君は頑として私の申し出を受け入れない。


またびっくりしたのは、てっきりパルミラ君もエジプト人料金でいけるかと思ったのだが、チケット売場のオバチャンが

「お前はシリア人よね。外国人料金払いなさい」

と命令し、高額チケットしか売らなかったことだ。思わずあんぐりしてしまう。

外国人料金を同じアラブ人に要求するのは、湾岸人相手なら分かる。お金持ちだから。

でもシリア人は一般的にエジプト人よりも貧しい上、少年はどう見ても二十歳過ぎには見えない。身なりも質素だ。それなのに、エジプト人め...

もう呆れて呆れて...私がわめいて喧嘩しようとすると、パルミラ君に止められた。


さらに博物館の中でも驚くことがあった。

私がパルミラ君に

「この像はアクナーテンという名前のファラオで、エジプトの多神教を一神教国家変えようとし、宗教改革を起こしたの。紀元前1300年頃のことよ。

そして『世の中は愛こそ全て』と愛について説いたのよ。だけど人々はぽかーんとして、『愛こそ全て?』が理解されなかったの。戦争してなんぼの時代だったから。

ところがその1300年後に、幼いイエスキリストがベツレヘムから逃れ、ヨゼフとマリアとエジプトに渡って来たでしょ。

その時にイエスはかつてアクナーテンが唱えた『愛こそ全て』の一神教を何かで知り、そしてそれをベースにして愛が世の中を救う、という新しいキリスト教を作ったという説もあるのよ」。


パルミラ君はとても興味を持ち、真剣に聞き入ってくれた。質問もいっぱいしてきた。

だから、私はさらに熱を帯びた説明をしようとしたのだが、いきなり警官に呼び止められ邪魔をされた。

なにかとおもいきや

「エジプト人のライセンスガイドはついているか?どこにいるんだ?」。

「はっ? これは仕事じゃない。プライベートで友達に案内しているだけなんだけど?」

「嘘つくな。お前はガイドだろ。顔を知っているぞ」

「いや、だから今回はプライベートで...」

「ライセンスガイドを連れて来い!」

「...」


ちなみに日本から母親が来たときも同じ目にあった。

この博物館で"お母さん"を案内してあげていると、いきなり見張りの警官に

「エジプト人ライセンスガイドを付けていないのかっ」

とわめかれた。

だから、母娘それぞれのパスポートを見せて

「ほら、苗字が同じでしょ、顔も似ているでしょ。親子なんだってば。仕事のお客さんじゃないんだってば」

と訴えたが、全く聞き入ってもらえず母親にガイドをしてあげられなくなってしまった。


余談だが、この母が来た時、日の出を拝むモーゼの山に登りたがったので、シナイ半島へ渡り深夜過ぎに山に入った。(←観光客だらけなので淋しい山ではない)

がそこで母は山頂のちょっと下で転んでしまい、足首をおかしくした。

私たち雇った専属エジプト人男性ガイドは、何も助けてくれず自分だけすたすた下山してしまった。

でも母は歩けない、足首が痛い痛い(←結局骨折..)という。

すっかり困り果てて弱っていると、見た目が中年のエジプト人のドイツ語ガイド氏が通りかかり、声をかけてくれた。

事情が分かるやいなや、そのガイド氏はなんと私の母親をおんぶして下山してくれた。しかも後で私たちの若いエジ男ガイドに強く叱りつけてくれた。

母はすっかりこのドイツ語ガイド氏にめろめろになってしまい、いまだに

「モーゼの山で出会ったエジプト人ガイドの紳士は、ああ本当に素敵だったわ~...」

...

まさか自分の母親まで、エジ男に惚れるとは! 笑



話は戻り、パルミラ君を案内していても、警官がまたもや「ライセンスガイド、ライセンスガイド」とうるさい。

仕方なくあれこれ説明するのを止め、二人で無言で館内を見て回った...


博物館を出た後も、パルミラ君はどこでも私の分の全ての交通費、食事代、入場料も払った。いくら反論しても全く聞き入れない。

確かに中東の文化では、男が女の分のお金を出すこと、女とは割り勘はありえない、というものなのだが、

パルミラ君は間違いなく今回、エジプトまでの航空券代だけで貯金全て使い果たしたに違いない上、

もともと貧しいだろうし、しかも見た目判断だと絶対未成年だ。(←正直、十代のアラブ人を容姿で正確な年齢を当てるのは難しい。もともとよく知らないから...)

参ったな、と思った。


その上、ギザのピラミッドに行っても、ここでも入場するのに、パルミラ君は外国人料金を請求された。

ほとんど似ているのに外見だけでエジプト人じゃないって分かるものなんだな、というのに感心もしたが、それにしてもエジプト人よ、あまりにもセコい...シリア人ぐらいは何故ローカル料金にしてやらないのだろう...


「まったく頭来るわね!よし、ええい!せめて今夜ピラミッドを借り切ってやる!」

私がそう言うと、パルミラ君はキョトンとした。


実はこの頃は、ピラミッドの閉まる時間の後でも、番人にバクシーシ(賄賂)を渡せば、入場料など不要でこっそり閉まったピラミッドのエリア入れてもらえた上、

ピラミッドの上まで登らせてもらえたのだ。(←小池百合子都知事も留学時代、同じことをしたとエッセイに書かれているそうです)


ピラミッドを登るのはなかなか大変で、結構一段一段高さがあるので難しいのだが、なんとかお互い協力し合いながら上部まで行けた。

ところが、忘れていた...

忘れていたのだ、"アレ"が始まるのを!!

そう、アレとは"音と光のショー"のこと!


確かにスフィンクスの方からナレーションを読み上げる大きなスピーカーの声がするな、とは気がついていたが、あっと思った時は手遅れ、時すでに遅し。

二人でピラミッドの石にぴたっと張り付いているところに、ショーのスポットライトが当たってしまったのだ。

この時、ショーはフランス語の音声によるもので、暗闇の中でライトの当たったピラミッドの石に、私たちが硬直してつかまっている姿を、フランス人の観客たちは無言で眺めた。


「まずい! 逃げよう!!」

頂点まで登るのを諦め、急いで二人でまた協力し合いながら、ピラミッドを下りていった。

後は暗闇に紛れて猛ダッシュで逃げた。ドキドキしてスリルがあったけど、とてもとても楽しかった!


その後、小型の乗り合いバスでタハリール広場の側まで戻り、そして夜のナイル川のほとりを散歩した。 

なにしろ私たちは不思議な組み合わせなので、露骨にじろじろ見られ注目を浴びたが、全然気にならなかった。



最後の日、「どこか行きたいところはある?」と聞いてみた。

するとパルミラ君はもじもじして

「動物園に行ってみたい..」。


シリアには動物園がないそうで、動物園に足を運んだことがないという。

「...」

率直に言うと、カイロの動物園は最低だった。

檻の中の動物はみんながりがりに痩せているし、動物の餌のおこぼれを狙う、やはりがりがりの野良猫がうじゃうじゃいた。

カイロは野良犬だけでなく、野良猫も多かったが、みんな骨と皮で飢えきっており、エジプト人が猫を蹴り上げたり石を投げつける光景もしょっちゅうだった。(←高級住宅街では見られないです、貧民街での話)

もちろん、庶民でも野良猫に餌を与える心優しい人たちもいたが、仕方ないのだが基本的なことがなっていない。予防接種、去勢避妊そして餌やりルールを徹底するなど全くなかった。

私のエジプト人の知人友人も結構猫を飼っていたが、去勢避妊もさせていないのに、

自由に外に出したり腎臓に悪い食べ物(ラム肉のピザとか)を毎日飼い猫に与えるとか、レベルが酷い。

「猫にはいいお肉か、オーガニックのキャットフードを与えないと」

なんて私が発言した日には、大声で笑われ馬鹿にされた...

こういうことは恐ろしいことに今でもあまり変わっていないが、でも以前も書いたが、その後愛護団体が設立されただけも大きな進歩だ。


とにかくパルミラ君が動物園に行ってみたいというので、私は久しぶりにあの劣悪なカイロ動物園に足を運んだ。


案の定、相変わらず幸せそうな動物は全くいなかったが、パルミラ君は生まれて初めて本物の象と麒麟を見たらしく、目を輝かし興奮してはしゃぎまくった。とても嬉しそうだった。


カイロ最後の夜は賑やかで明るい市場へ繰り出した。

でもパルミラ君の調子はあまり良さそうではなかった。

なんとお腹を壊したのだ。

やっぱりな、と私は思った...エジプトの不衛生な食べ物や飲み物は、シリア人の彼にも合わなかったのだ。


弱々しながらも、パルミラ君はどんなに愉しかったか、ありがとうとお礼を述べてくれ、そしてものすごく緊張しながらこう言った、

「僕はもっと頑張って働く、もっと頑張って貯金する。だから必ずまたパルミラに戻って来て欲しい!」。

「...」


とにかくこちらも真剣に答えねばならない。そして彼がまだ未成年であることもしっかり踏まえなければならない。

だから言葉を選んで慎重に答えた。

「こればかりは"ご縁"ね」。

この"ご縁"はアラーの御心,Allah's wishで言った。ご縁/運命/宿命といった単語をイスラム圏で言うときは、"アラーの御心"にすべきだというのが、私の考え。


「どうなるのか分からないけれど、手紙は出し続けるわね。どこにいようが必ず手紙を出し続けるし、アラーが望んだらパルミラにまた行くから」。

少年は神妙な顔つきで頷いた。きゅるきゅる鳴るお腹を押さえながらだったけれど、涙をこらえる潤んだ目ではっきりこう言った。

「僕も手紙を書き続ける。そして何があってもパルミラにいる。ずっと待っている。僕はずっとずっとパルミラにいるからね」。



私たちは約束を守った。

私はプラハに住んでも定期的にパルミラに手紙/葉書を送り続けた。日本に戻っても、また別の国に飛んでも何処からでも必ず連絡をし続けた。

少年も同じだった。彼のよこす便りの住所はいつだって

"パルミラ、シリア P.O.BOX★"だった。(←★は数字。そしてこれが全住所..) ずっとこの住所だった。



パルミラにはまた戻ろう戻ろう、と本気で思っていたが、やはり私も生活がどんどん変わり、そういう状況ではなくなっていった。

パルミラから毎回受け取る便りは変わらず嬉しかったが、彼ももう間違いなく成人を過ぎている。

見た目だけでなく、中身も変わったんじゃないか、あのピュアな感じはもうないんじゃないか...

そう思うと美しい思い出のままでいた方がいいのかもしれないな..

それでも私も手紙を送り続け、(元)少年も必ずすぐにパルミラから返事をくれていた。



手紙を出しても返事が全く来なくなり、電話も不通で繋がらなくなったのは、内戦だとかパルミラ遺跡爆破だとかの報道が起きた頃だった。


インターネットも駆使したが、彼の行方はもう分からない。

唯一分かったのは、あの宿はすでに爆撃で吹き飛ばされているということだけ。

でも彼は元気にやっていて、またどこかで夜を迎えているのなら、

私たちが兄弟で羊の飼育を一緒していた、という不思議な太古の時代の光景を、

今夜も眠りにつく夢の中で見てくれていると信じている。


それにしても、争いは今日もなくならない。

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↑シリア旅行の時、カメラを持って行かなかったので、このシリアシリーズであげた写真は全て、パルミラの彼から送られた絵葉書のものです。写真は一部...






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