テロの余波を受けて①
1997年11月17日
ルクソールで大きなテロが起きたこの日は、友人のヨウコさんがそこのルクソールガイドの予定を入れていた。
だから私は慌てて日本から国際電話をかけた。
するとホッとした。彼女はカイロの自宅に戻っていたのだ。被害に遭ったツアーと同じ会社の主催ツアー担当だったが、あのツアーではなかった。
ハトシェプスト女王葬祭殿でテロを実行した(といわれている)イスラム集団は、アラビア語でガマア・イスラミーヤという。
ガマアというにはモスクや大学の意味もあるので、『イスラム大学』の方が本当は正しい訳だと思う。なぜならそもそも大学の構内で学生たちの間で広がり結成されたテロ組織だからだ。
イスラム集団(大学)の精神的指導者は、オマル・アブドッラフマーンだった。1993年にニューヨークの世界貿易センターを、アルカイダのオサマ・ビンラディンと爆破したエジプト人だ。
イスラム集団にはアフガニスタン紛争(1979-1989)に参戦していたアフガニスタン人元兵士たちも混ざっていた。
彼らの主旨は、コプト教(キリスト教)を容認し、アメリカになびいているエジプト政府を転覆させよう、というものだった。
そのためにはツーリズムに打撃を与えるのが手っ取り早いということだったのだが、いまだに私が解せないのは
そんなにエジプトのツーリズムを駄目にしたいのなら、なぜピラミッドや神殿を爆破しないのか。
二つ目の疑問は、なぜ一番エジプトにお金を落としているはずの、湾岸人の富豪ツーリストたちを絶対狙わないのか。やはりそれは同じイスラム教徒だからだとは思うが...
またハトシェプスト女王葬祭殿事件が起きたのは、かつてヨーロッパ列強大国(=クリスチャン)のVIPたちを招いたスエズ運河開通式と同じ11月17日だ。
それは単なる偶然だったのか、それとも意図が何かしらあったのか。多分、1997年のそれまでのエジプト政府の動きを調べたら、何か答えが見つかるかもしれない。
この事件の起きた時、ヨウコさんはひとつ手前の遺跡、メムノンの巨象の所におり、銃声も人々の悲鳴も全部聞こえたのだという。
だからすぐにホテルに引き返し(←前に書きましたが、私も同じ経験あり)、
警察がルクソール市内全てのホテルの警備にあたり、外国人は誰ひとりホテルの外を一歩も出るのを許されなかったという。
どこのホテルロビーの中にも機関銃を構えた物々しい警備隊が配置され、街自体も封鎖されたそうだ。
ルクソールを離れる際は、ルクソール空港まで向かう全ての外国人観光バスそれぞれに複数台のパトカー護衛がつき、かつてないほどの厳重態勢が敷かれたという。
「ああ事件そのものはショックでたまらないけど、ヨウコさんが無事だったのはよかったよかった。
でもヨウコさんもいつも危機一髪じゃないの。カイロ考古学博物館前のテロ事件の時は、その一歩手前にいたんでしょ。
で今回もテロ現場の一つ手前の場所にいたなんて、間一髪じゃないの」
「ハハハ、本当だ、ラッキーが二回続いたよね」
「ただ、いつまでその幸運が続くか分からないよ。ちょっとガイドの仕事を休むとか、一旦日本に戻るとかしたらどう? なんか胸騒ぎがするのよね」。
私は受話器越しで本当にはっきりそう言った。しかし彼女は曖昧に笑うばかりだった。
ところで後に私がエジプトに戻った際に、そのテロ現場にたまたま居合わせたエジプト人ガイド(松葉杖だった) からいろいろ聞き、また詳細を知る某日本人からも詳細を聞いた。
被害者の日本人たちは新婚旅行ツアーだった。
あまり詳しくは書けないが、自分の目の前で結婚したばかりの相手が殺されたり、命が助かってもダメージの大きい後遺症や障害が残ったりした、ということを想像すると、その被害者の方々の悲惨さは言葉では表現できない。
またどさくさ紛れで被害者の荷物が紛失したりなどもあったらしく、どこまで本当かどうかは分からないが、言葉を失うような有様だった。酷い...めちゃめちゃだ。
そもそもルクソールのようなど田舎で起きたということ自体、気の毒だった。なぜならまともな救急病院など全くないからだ。
以前どこかで書いたが、エジプトの政治家は大きな手術が必要になると、すぐにスイスなどに飛ぶ。
そういう政治家たちは自国に医療施設が十分充実していないことにも、腕のある医者たちは海外へ出てしまっているという状況に危機感を抱いていなかった。
ほかのテロもそうだが、エジプトの病院がもう少しまともならば、もっと救える命はあったはず...
エジプト政府はビシバシとテロリスト容疑者も捕まえ、各観光地での警備を強めてはいたが、その政府内部にテロ組織との関わりは無かったとは思えない上、
実際に事件が起きたあとの医療体制の方は全く整えていなかった。
とにかくルクソールで被害に遭ってしまった日本人の新婚旅行の皆さんは気の毒だし、いろいろ感じる点はあるが、
それでも自分の親友のヨウコさんが無事でよかった、というホッとした気持ちを持ったのも本当のところだった。
ヨウコさんは世界放浪の旅に出てローマで半年ほど働いた後、地中海を南下しエジプトに渡って来た。
ひとりでギザのピラミッドを観光していると、物売りやぷらぷらしているだけのエジプト人たちにしつこく絡まれた。
彼女がむきになればなるほど、彼らは喜んでもっとしつこく纏わり付く。いらいらしながら怒鳴っていると、ある男性が彼らを追い払い助けてくれた。
イタリア人の老夫婦を観光ガイドをしていたアムル(仮名)だった。
アムルはヨウコさんもイタリア語を多少話す、ローマに住んでいたということに喜び、何だか二人はあっという間に意気投合。
アムルはヨウコさんのどんぴしゃりなタイプの男性だった。細身でジーンズが似合い、ベビーフェースで母性本能をくすぐるキュートな感じの男だったのだ。
二人はなんと知り合ってすぐに結婚した。まさに衝動婚だ。
愛情を確認しあっていたはずの香港君はいずこへ? という感じなのだが、彼女は国際電話をかけちゃんと香港君にはお別れとお詫びを直接伝えたのだという。
二人の新居は砂漠に近い(といおうかほとんど砂漠)の殺風景な団地だった。
エレベーターももちろんないが、電気は通っていたので大したものだ。
二人の住まいには広いリビングルーム兼ダイニングルームがあり、ベッドルームは二つ。浴室にはバスタブはなかったが、ちゃんとお湯も出た。
「聞いていい? いくらで購入したの?」
「ふふ、日本円で25万円」
「!!」
びっくりだ、思わず何度も何度も聞き返した。東京のワンルームマンションの毎月家賃より安い。いくらエジプトでも安すぎる。250万円の間違いじゃないか、確認したがやはり25万円だと...
多分エジプト人のアムルが交渉したのでローカル価格で購入できたのだろうが、それでも安い...
二人がさっさと結婚した最大の理由は、とにかくノリと勢い。そしてもう一つの理由は、エジプトでは夫婦じゃないと男女が二人きりになるのが難しく(外国人同士なら問題はない)、
どちらかの家に外泊するだとか、ホテルでも同じ部屋には一緒には泊まれない。夫婦証明書の提示が求められるのだ。
このように、未婚の男女が人気のないところで二人っきりになりにくい事情もあるので、エジプトでは(男性がお金を貯めれば)結婚を急ぐカップルが多い。
ヨウコさんに観光ガイドをするように薦めたのはアムルだった。
彼も一応ツーリズムで働く端くれだったので、日本人ガイドの需要の高さ、そして日本人ツアーは"稼げる"ということを知っていた。
エジプト人夫らを見ていると、妻に観光ガイドをさせるのを絶対嫌がるパターンと、「そんなに本人が外で働きたいのなら。家計の足しにもなるし」と認めるパターンとに分かれた。
しかし、アムルのようにノリノリで自ら妻に観光ガイドをさせる夫は珍しい。
実際アムルはエジプト人夫にしたら、非常にくだけたタイプだった。
普段でも妻が自由自在に行動するのを全く制限しなかったし、妻が女友達と映画館に出かけたり、夜のクラブやバーに繰り出すのも、嫌がらなかった。全くヨウコさんを自由にさせていた。
また妻がピタッとした身体の線が出る服装でも、それを咎めない。こんなに妻を自由奔放にさせるエジプト人夫は、他には全くいなかった。
このように言うと、彼が大変欧米的な進んだ夫のように聞こえるが、実際のところ破滅型のチンピラだった。
モスリムなのだけどお祈り用マットを足拭きマットがわりに使っていたし、酒を飲んで酔っ払っては、自宅ベランダから外に向かって大声で
「ファッキ○ングエジプト!」と叫ぶ。
始終ハシーシも煙草も吸って脳みそをぽやーとさせとろんとした表情でいるか、逆に突然
「エジプトなんて嫌いだ嫌いだ、早くこんな国なんか出て行きたい」と大声でわめき散らかしたり。
仕事は、というと前述のイタリア語ガイドなのだが、ほとんど彼は無職だった。
テロの関係でイタリア人観光客はほとんど来ていなかった上、第一イタリア語ガイドなんてはい捨てるほどいる。
日本語ガイドの数とは比較にならないほど、英語ガイド、フランス語ガイドそしてスペイン語とイタリア語ガイドは山ほどいた。
だから多分、そんなに実力もないアムルには全く仕事が回って来なかった。
(↑ちなみに、90年代の時点でロシア語や中国語を選んだエジプト人ガイドはとても賢いと思う。)
やることのないアムルは、多くのエジプト人男性同様にぷらぷらばかりしていた。
そもそも親も親で、このドラ息子を叱声するどころか甘やかし、何かと小遣いを与えていた。もう30近いのに。
傍目で見ていると、アムルの良さが全く分からなかった。カナエさんのご主人の方はまだその研究専門分野では凄い人だったらしいので、そういう部分を尊敬できたというのは分かる。
だけどアムルには尊敬できる部分が何もない。
しかしヨウコさんは信じていた。
「二人で他国に移住できたら、彼も変わる」。
そう、この夫婦には夢があった。二人でよその国に移住して、ゼロから新しい生活を始めることだ。
二人は定期的にアメリカのグリーンカード抽選に応募をし、(比較的エジプト人が移住しやすいと言われていた)オーストラリア、カナダにも移住申請をどしどし出していた。
アムルはとにかく何が何でもエジプトを出たがっていた。
彼はエジプトで生まれ育った生粋のエジプシャンで、外国には一回も出たことがないものの、この国が嫌でたまらずとにかく飛び出して行きたかった。一回でいいから、この目でエジプトの外の世界を見たかった。
だから妻とアメリカ映画を見に行くたびに、ロサンジェルスに憧れ、マンハッタンにため息をついた。
「あなたが想像するほど、アメリカも素敵な国じゃないよ」
などと私がうっかり言うものなら、顔を真っ赤にしガーッと反論された。
でもそのアメリカもヨーロッパも移住はおろか、観光ビザですらも出やしない。
エジプト人にとってアメリカ、イギリス、日本のこの三カ国のビザ取得が、最難関であると言われていた。
もしこれら三つの国のいずれかの観光ビザを取得した実績があれば、他のヨーロッパも観光ビザを出してくれやすくなるのだが、まあなかなかうまくいかない。
日本のビザがとても厳しいのは、本国の外務省からの要請だったという。不法滞在のエジプト人が増えていたため、イラン人やトルコ人よりもエジプト人のビザ発給を厳しくしていたのだそうだ。
ナイルクルーズ船の船長の話の時、世界中の旅行をしたアルバム写真を見せてもらったと書いたが、本当に船長の一族はブルジョアだったのだろう。
ところで、ヨウコさんと私が気が合ったのは年齢が近いことだけが理由じゃなかった。
二人ともカイロにいる日本人女性にすれば、ちょっと"浮いて"いたからだ。
多くの日本人女性は真面目で優秀な留学生か、またはほかの国にはほとんど行ったことがなく、エジプト人に嫁いでご自身もコテコテコチコチのモスリムになったという敬虔な信者だった。
だけどもヨウコさんも私も全くそうではなかったし、お互いにファッションも音楽も映画もお酒も好きだった。ようはカイロでは派手な部類だった。
またカイロにいる日本人女性の中に、東京出身者はほとんど皆無だった。でもヨウコさんは東京に住んだこともあるので、懐かしい東京の話題も通じた上、ヨーロッパやアメリカの話で盛り上がることもできた。
ヨウコさんは世界放浪ですでにいろいろな国々訪れていたが、実はエジプトからもしょっちゅうアメリカやヨーロッパに飛んでいた。
なぜなら旅行会社の仕事以外に、もう一つ仕事をしていたからだ。
それはザマレック地区のサニースーパーのオーナー、岡本氏に頼まれて、アメリカやヨーロッパに飛んで外国の食品や日本食の買い付けをすることだった。
私からしたらとてうらやましい仕事だった。
渡航費と滞在費を出してもらえて、食品を買い付けしそれらをカーゴで送ればあとは現地で自由に遊んでいいのだ。
彼女がメインに乗っていたTWAのマイルもずいぶん貯まることもあり、ああいいないいなと本当にうらやましかった。
ヨウコさんは海外の食品買い付けで帰ってくる度に、向こうのレストランで口にした食事を、カイロの自宅のぼろアパートのキッチンで再現をした。
私もよく招かれたが、彼女は料理には天才的な才能を持っており、「よくまあプロの味をここまで再現できるものだ」とびっくりするほどの腕前を披露してくれた。
彼女は心底料理が好きだったので、アメリカなどに移住できたら二人で小さな飲食店を経営するのが夢なのだと言った。
しかしその割には、夫婦は食卓の場でよく激しい喧嘩もしていた。
ヨウコさんの手料理を口にすると、アムルは美味しいあまり感激して
「アルハムドリラー」 神のおかげで、と言う。
文字通りの意味に受け取らなくていいのだが、彼女はいちいち反応してむきになった。
「なんでアラーに感謝するんだ、作った私に感謝しろ!」
「でも君が美味しい料理を用意できるのも、アラーのおかげだから」
「意味分からない!二度とアラーのおかげで、なんて私の料理を食べる時には言うな!」
私がうっかり
「ヨウコさん、そんなにむきにならないで。いただきます、のニュアンスで受け止めたら?」
など口を挟むものなら、彼女の怒りの火に油を注ぐだけだった。
他にもちょっとしたことで夫婦喧嘩を始めると、手がつけられないほど激しく、物を投げつけるわ髪の毛を引っ張り合うわめちゃくちゃだった。
ちなみに私や他の人といる時のヨウコさんはとても寡黙で大人しい。ところが夫のアムルといると豹変し口調もきつくなって暴力的になった。
次第に彼女のメイクは濃くなっていったし、耳のピアスの数もどんどん増えて、それぞれの耳になんと二十近い穴を開けているだとか、
やたらと「ああ早くこんな国、出たい。早く離婚したい、ひとりでまた世界旅行したい」とぶつぶつ言うかと思えば
「こんな国から出られないアムルが可哀相だ。早く二人で渡米できたら!」
などため息をついたり...
だけどもかたや、うまくいっているときは二人で手を繋いで映画館や夜のスーク(市場)にも繰り出し、ケタケタ笑いあってとても幸せそうだった。
結局なんやかんやで仲良さそうで、本当にアメリカやオーストラリアに移住できたら、もっとうまくいくのかなと思えてきてしまうほどだった。
ヨウコさんが海外への食品買い付けや観光ガイドであまり家にはいなかったせいで、気付けば彼らの住まいはアムルの不良友達のたまり場になっていた。
親も妻もいない。だから彼らはそこに集まり酒を飲みハシーシを吸った。
ヨウコさんはそのことを全然知らなかった。
ところがある時、家に戻ってびっくりした。寝室のクローゼットに入れていたスーツケースがそっくりそのまま消えているのだ。
中にはお気に入りのパールの腕時計 (←香港君からの贈り物)、ゴールドや宝石のアクセサリー、ブランドのドレスとヒール、そして大金の米ドル札束を入れていたのだという。
実は友達をよく家に呼んでいたことをアムルは告白した。そして彼はアパートのバワーブ(番人)に
「なにか目撃していないか」
と聞いてみた。
すると、案の定! アムルの友達のひとりが、ベランダからヨウコさんのスーツケースを投げ捨て、アパートの建物を出たあと下でそれを拾いタクシーで去って行くのをバワーブは見ていた。
こいつを捕まえよう-
ヨウコさんがまだカイロに戻って来ていないことにし、アムルも何も気がついていないことにして、またその男を家に呼び寄せた。
奴はのこのこ現れた。また何か盗んでやろうと思ったのだろう。
そして台所にこっそり待機させていた警察官たちが、まんまを男を取り押さえた。
スーツケースの中身は少しだけ戻ってきた。
アクセサリーや服、ヒールは男が自分のガールフレンドにあげてしまっていたのだが、なんと女も女で、それらをとっとと闇市で売りさばいてしまっていた。
お金も半分使われていたが、男の親が意外にもお金持ちだったので全額返してもらった。
ただ一番気に入っていたパールの腕時計がなくなってしまっていることに、彼女はとても落胆した。現金よりもパールの腕時計の方がよほど取り戻したかった。
しかしこれで一見落着のようだったが、なんと!
驚くべきことに、こそ泥友達男は一週間もしないうちに刑務所を出た。親が賄賂で息子をすぐに外へ出したのだ。
「ねえ引っ越したら?」
私が言った。
「だって犯人のあいつはもう自由なんでしょ。家も知られているし気持ち悪いから引っ越したら?」
実は私は前々からヨウコさんにはそれとなく引っ越しを提案していた。
なぜなら"感じる"のだ。
初めてこの家に招かれた時から嫌な"気"を感じていた。
うまくいえないがとても寒々しく暗い雰囲気が常に漂う家で、ここを訪れるたびに私はとにかく疲れあまりいい気分がしなかった。そしてなんだかとても悪い虫の予感がしてならなかった。
しかしヨウコさんはそういうのを一切信じないリアリストだった。だから私の心配を鼻で笑った。
つづく
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