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「ベルエポック時代のエジプトに住んでいたんです」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅠ〜LOLOのチェコ編⑨
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「一応、観光ガイドのライセンスも取っておいた方がいい」
ある時、突然勤め先の撮影会社からそんなことを言われました。
確かに、撮影に同行する制作会社の社長や局のおえらいさんの街案内もしていたので、何かの時を考えるとライセンスを持っているほうがいいに越したことはありません。
ライセンスは賄賂だがコネで簡単に取得できる、とのことでしたが、それでも
「しっかりガイドを出来ないと、日本から来る肝心なお客様から苦情が入る」
そこでカレル大学の何とか歴史の先生が登場しました。仮名を「カレル先生」にしておきます。笑
季節は真冬でした。なので、雪の中を一緒に歩き回りました。集中講義ということで毎日でしたが、一言で言うと、地獄でした。
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0度とかマイナス何度という厳寒の中、外でえんえんと、カレル先生は平気な顔で長々説明をするのです。
「この建物はゴシックのロタンダとアールヌーヴォーが融合した建築でー。その右隣の建物はルネッサンス様式、そのまた隣はロマネスクー」
「えっ?全ての建物の説明をするの!?勘弁してよ、、、」
私の歯はカタカタ、カスタネット状態で、鼻も耳もまつ毛も凍り、下半身はとっくに感覚がありません。カレル先生はチェコ人なので寒さには慣れていますが、くどいですけれども、こちらはエジプトに何年もいた日本人です。
しかも、冬はエジプトの観光シーズンなので、私はアラビア語授業もお休みして、旅行業の仕事のために、その時期は上エジプトで過ごしてばかりでした。
真冬でもアスワンなど40度は越しているので、クリスマスも元旦も、日傘と日焼け止めクリームはかかせず、「暑い暑い」ミネラルウォーターばかりがぶがぶ飲んでいました。
何年もずっと「半袖」で汗を流して冬を過ごしていたのに、いきなり雪の降る中、外でじっとして長い話を聞かされる…。
そもそも、カレル先生は二メートルぐらいの身長で、脚が長い。移動も早く
「さあ次の教会まで歩いて行こう」「旧市街を全部歩こう」
など言って、大股でサクサク歩きますが、こっちは短い脚で不慣れな積雪の中を必死進みます。
ついていくだけで大変ですが、カレル先生はそのことに全く気づきません。「学者や研究者あるある」です。こういう職業の人は全く周りを見えていません。
それにです。話す内容が面白ければまだ気も紛れるのに、ああチェコの歴史の話のつまらないことよ!(*主観です)
如何せん、こちらは4,5千年の歴史話に慣れているので
「この建物は非常に古くて、、、」
と説明されても
「古いというのは、どのくらい古いのですか?」
「11世紀だ」
「11世紀というのは、AD(紀元後)ですか?BC(紀元前)ですか?」
「Afrer Death、ADに決まっているじゃないか!馬鹿か? Before ChristのBCのわけがない」
「…」
いやいや、「紀元後」11世紀だなんて、つい先週のことじゃないですか。だって毎日のように
「ツタンカーメンは紀元前1300年頃に生まれー」
「アレキサンダー大王の東方遠征はたった紀元前331年のことでー」
と話していました。
観光客の皆さんだって、エジプト遺跡観光4,5日目になると
「このミイラは、紀元前500年代の仏さんですか。ずいぶん新しい遺体ですねえ」
このように聞いている側の感覚も狂っていき、カエサルとクレオパトラ7世の不倫だって
「一昨日のことじゃん」
と思うようになっていたのです!
パッとしないのは、年号だけではありません。数々のお城も華やかさやダイナミックさに欠けます。チェコのお城はどれも小さくて地味です。(主観です)
目玉のカルルシュテイン城も
「1348年から1357年にかけて造られた」
「1348年?やっぱりADの時代を指しているんだろうな…」
そもそもエジプトの超巨大建造物に見慣れ、そしてすでにベルサイユ宮殿をはじめ、ドイツやオーストリアの圧倒される城の数々を私は観光済みだったので、ああつまらない。
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せめてロンドン塔のように幽霊話でもあればいいのに、と思いカレル先生に尋ねると
「は?幽霊目撃話?そんなものはチェコの城にはない」
アホだなあ、と思いました。幽霊話と城はセットです。その方が観光客も押し寄せるのに、長年共産時代でいると、そんな「常識」も知らないのでしょうか。
目を引くような凄い秘宝がないお城で、しかも豪華絢爛でもない内装ならば、せめて「でも幽霊は出るよ」としておけばいいのに!
それからカレル先生、
「965年(もちろんBCではなく、AD)、イブラヒーム・イブン・ヤコブ(ジェイコブ)というアラビア人の商人がプラハの街にやって来て、”石の街だ”と感想を残したがー」
いや、「ヤコブ」ならアラビア人ではなくユダヤ人の商人じゃん、など思いましたが、黙っておきました。
プラハのユダヤ人地区ももちろん歩き、無論、カフカの墓にも行きました。昔は気づかなかったけれども、中東に住んだ後に改めてカフカの顔写真を見ると、本当に彼はユダヤ人だなあと思いました。
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イスラエルの本屋では「ユダヤ文学」のコーナーに、ヘブライ語翻訳のカフカの本がよく沢山売られていましたが、改めて読み直すと、なるほどと思いました。すごくユダヤ的だし、ユダヤ人が誇りに思うのもご尤も。(これも主観です)
もっとも本人は中東に来たことがないようですし、まだイスラエルも建国していません。
しかし、カフカの生きた時代がちょうど、ブダペスト出身ウィーン在住のヘルツルによるシオニズム運動が盛んになったタイミングで、しかもカフカはイディッシュ語も話しました。
(*イディッシュとは東欧中欧のユダヤ語。ちなみにスペインイタリアのユダヤ語はラディーノで、エジプトにはラディーノ語を話すユダヤ人が多かった)
カフカはともかく、遂に私はダウンしました。当たり前です。
いくらまだ若かったとはいえ、暑いエジプトから(三ヶ月ほど東京生活を挟んだけれども)東欧チェコに移り、毎日雪の中を何時間も歩かされ、長い話を聞くために長い時間、雪の中で立たされていたのです。
それに、うっかりしていましたが、私は喘息持ちです。湿度ゼロの環境にいると、喘息発作が起きないため、エジプトではほとんどゴボゴボが出ることがなく、自分が喘息持ちであることを忘れていました。
ふらっと倒れたのは、今でも忘れません。誰もがその名を知る、「我が祖国」で有名なチェコ人作曲家のスメタナの墓前でした。
その日はマイナス8度の気候でしたが、カレル先生はスメタナの墓の前で長々と彼の人生や音楽の解析を話し始めたのです。
私も早めに「ギブアップ」を言えば良かったのでしょうが、そこは昭和時代の教育の弊害です。
何しろ部活の最中は一切水を飲んではいけない、猛暑の中の運動会体育祭の練習も我慢しろという過酷な教育を受けてしまった世代なので、耐えてしまうのです。
雪にまみれたスメタナの墓を見ながら
「なんでオベリスクになっているんだろう?スメタナもフリーメイソンだったのかな?」
など思いながら、その場で意識を失いました。
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意識を戻した時は、病院のベッドの上でした。
エジプトでは観光中に熱中症で突然倒れる観光客はちょいちょい見かけましたが、寒さでもこういうことがあるのですね。
2メートルのカレル先生が運んでくれたようでしたが、私は点滴の針を刺されていました。
まだ朦朧としながら
「ああこの点滴の針は使い捨て針かなあ。エジプトのように使いまわし針だったらサイアクだ」
など考えたのを、つい昨日のことのように思い出します。
しばらくすると、会社のチェコ人女上司のレジーナが姿を見せました。心配してくれましたが、同時に不思議そうな顔もしていました。
「私の日本人の友達はチェコに遊びに来た時、寒さと雪にはへっちゃらだったのに」
「…ゼーゼーハーハー、ゴホンゴホン。そのあなたの日本人のご友人は日本のどこに住んでいる人ですか?」
「ええと、新潟?」
「新潟生まれ育ちの新潟人と、エジプト帰りの東京人は寒さへの耐性がまるで違うんです!ゴボッ」
点滴でなんとか回復したものの、冷えによって長年なりを潜めていた喘息発作が起きてしまいました。呼吸は出来ないし、横になると悶えるほど苦しい。死ぬ、と本気で覚悟する辛さです。
ところがチェコの病院で処方される薬は一切効きません。
最終的に隣の先進国ドイツまでゼーゼーハーハ苦しみながら移動し、そちらの病院の治療と薬、それから病院勤務の従姉に日本から送ってもらったツムラの漢方薬で一発で回復しました。特にツムラが効き、びっくりです。
§
とにかく寒さで倒れ、喘息発作で死にかけたので、流石にカレル先生の街歩きお勉強ツアーは一旦、休止になりました。
一に安静、二に安静です。なので会社には通うけれども、水泳も行くのを止めて、しばらくは毎日まっすぐ自宅に帰る日々になりました。
定時に上がり家で何をしていたのかといえば、建築の本を読み漁ることでした。
それまで一切興味を持ったことはないのですが、カレル先生のおかげで建築に関心を抱くようになったのは事実で、確かにプラハは建築の街。
各時代の様々な素晴らしい建築様式の建物がびっしり連なっており、奇跡のような芸術の街なのです。ただしプラハ郊外はそんなことないですが。
カレル先生の講習で多少建築の知識を得たこともあり(これはとても感謝していますし、それまではグレコローマン様式やマムルーク様式などしか知らなかったし 笑)、その後、様々な建物を眺めながら独り歩きをするのが楽しくなりました。
建築見学歩きもやり過ぎて腰痛になったけれども、これはいい経験でした。
というのは再びエジプトに戻った時に、以前は気づかなかった「建築」に目がいくようになったからです。
「あれ?アレクサンドリアやカイロにも、プラハのようなヨーロッパ様式の美しい建物がいっぱいあるじゃん」
なぜかつてそれに大して気づかなかったといえば、どれも砂にまみれ色褪せ、修繕もされていないので一見ぼろぼろであったこと。
それにすぐに悪い奴ら(客引きとかスリとか痴漢とか)に狙われるため、肩に力を入れて気を張り歩いており、そんな建物をじっくり眺める心の余裕がなかった。
そんな時でした。
プラハの建築の本を読んでいると、
「ブルタヴァ川(ドイツ語でモルダウ川)に面したところにある、1932年完成したチェコ通産省庁舎は、建築家ジョセフ・ファンタによるものであるが、ヤン・レッツェルの広島産業奨励館(のちの広島原爆ドーム)(1915年)に影響を受けて設計された」
「ああ、だから似ているのよね」
でも、すでにその通産省庁舎を何度も見ているし、日本のガイドブックにもそのことに触れていたので、さほど驚きはなかったのですが、ちょっと「引っかかる」ものがありました。
本に載っている写真ー広島原爆ドームとプラハの通産省庁舎の写真二枚を眺めながら、あることを思ったのです。
「この二つの建物は、何かの建物にも似ているなあ。何だったかなあ?」
さらにです。
「チェコ人のヤン・レッツェルが設計した広島産業奨励館こと原爆ドームは1915年に建てられたというけれども、よくよく考えると、当時は珍しかった鉄筋コンクリートの使用のアイディアと技術はどこから得たのかしら?」
あいにく、その本にはそこまで書かれていません。
私は腕を組み、頭を下げ悩みました。この本を見ても、その時代にチェコには鉄筋コンクリート造の建築は特にはありませんし、日本はおろかヨーロッパ全体でもそれはまだ珍しいものでした。
ちなみにこの本です。何度かの引越しで紛失してしまいましたが、アマゾンを見ると驚きました。195米ドル?値段が大幅に上がっているではありませんか!買った時はせいぜい20米ドルぐらいだったはずなのに。
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ところで、部屋のテレビは付けっぱなしの状態でした。一人暮らしで寂しいし、電気代は会社負担なので、家にいる時はいつだってテレビの電源を入れていました。
もっともチェコ語が分からないので、テレビはBGMみたいなものでしたが、私がうーんと考えているとです。古い映画「スフィンクス」が始まりました。
この映画は1982年に公開されています。エジプトのサダト大統領がイスラエルとエルサレムのキングデビッドホテルで和平を結び(その日、全てのアラブ人ホテル従業員は出勤を禁止されました)、
言葉を返せば、イスラエルと和平調停を結んだことにより、エジプトがアメリカとも「友達」になりました。
この後、「スフィンクス」の映画ロケはエジプト全面協力でカイロやルクソール、アスワンで大々的に行われました。まさにアメリカ製作の娯楽スペクタル映画です。
何度も見た映画ですが、テレビ画面に映画のカイロの街が映ると
「ああ懐かしい!」 笑
胸がぎゅっと締め付けられる思いがし、涙がす少しだけ溢れました。あれほど文句ばかり言っていたのに、なんと「ホームシック」です。これには我ながら驚きました。
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映画はさておき、再びプラハの建築の本に目を戻した時、
「あっ!」
唐突に閃きました。
「分かった!分かった、分かった分かった!
スエズ運河株式会社のオフィス建物だ!
あれは1890年代に建てられた、当時は非常に珍しい鉄筋コンクリートで、1915年の広島産業奨励館(原爆ドーム)はそれに通じるものがあるんだ!」
でも、「待てよ…」
「もしも…。もしもチェコ人のヤン・レッツェルがスエズ運河オフィスの鉄筋コンクリートにインスピレーションを受けているとしたならば、彼は日本へ行く前にエジプトを訪れていなければ辻褄が合わない」
しかし、その本はレッツェルの日本に長く住んだことしか触れていません。
「ウーン」
ネットのない時代というのは、何かを調べたくてもまどろっこしいものでした。一方、ものすごく自分で推測する訓練もさせられ、脳を鍛えられる時代だったと思います。
結局、この件はそれ以上分かることがなく、諦めました。
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§
喘息発作がようやくおさまると、いよいよチェコ共和国政府認定観光ガイドの試験を受けることになりました。
チェコ人試験官と一緒にプラハの街(主に旧市街)を歩き、あれこれ質問されたことに答えるというやり方でした。
登場した試験官はロシア語とチェコ語しか話さない老婦人でした。なので、「通訳」が同行しました。日本語観光ガイドの若いチェコ人青年です。
「さあ、僕が通訳しますから、Loloさんは好きなように喋ってください」
先に申しておきますが、まだ日本人ガイドさんがチェコにいらっしゃるとして…今現在のチェコのガイドさんはちゃんと勉強し正攻法でライセンスを取得しているに違いない、ということです。
「この像の聖人は誰ですか?」
「この絵画に描かれている人物について述べてください」
「なぜこの道は囲いで覆われているのですか?」
等などでしたが、多分私がチェコ語をマスターしていたら、直接試験官にすらすら答えられていたと思います。
というのは
「天気の話でも料理の作り方でもいいから。最悪、教会を見ても、ピラミッドの説明でもしていればいいから。日本語なら何も通じないから、通訳がうまくやってくれるから」
と言われていましたが、一応真面目に諸々勉強しており、そんなに難しくなかったからです。
やはり5000年以上の歴史を持つエジプトを学んだ時より、チェコの大まかな歴史の勉強はもう簡単でした。(語弊がありますし、あくまでも表面上の触りの部分を指しています)
それにエジプト考古学博物館には数え切れないほどの展示品がみっしりとおさめられており、それらをほとんど全部案内できるようになるのに、それはもう苦労しました。でもプラハの博物館なんて…。
ブルタバ川沿いを歩いた時です。
老婦人の試験官が、とある建物を指差し
「あれはなんですか?」
と聞いてきました。あ、サービス問題だと思いました。日本人なら絶対に答えられるのを分かっていて、質問したのに違いありません。
前述のことをすらすら日本語で語りました。
「1932年に完成したチェコ通産省庁舎です。1915年に広島に建てられた産業奨励館をモデルにした設計なので、非常によく似ています。
その広島の産業奨励館を設計したのは、同じチェコ人のヤン・レッツェルですが、産業奨励館は原爆ドームとして世界中に知られています。
当時は非常に珍しかった鉄筋コンクリートを使用していたのも、完全に爆破されずに済んだ理由でした。」
試験官は、チェコ人通訳を通してですが私の答えを聞き
「(日本語なので、何言っているか分からないけれども)ああちゃんと答えているな」
というような顔をし、頷きました。そして通訳に何かべらべら話しかけました。
「何ですか?」
私が尋ねました。
「いや、Loloさんがエジプトでもガイドの経験があることを、先に伝えてあるのだけどもね、試験官の彼女は今こう話したんだ。ヤン・レッツェルはエジプトにも住んでいたんだ、と」
「えっ?」
老婦人の試験官は続けて話し、通訳氏がそれを日本語に同時通訳をしてくれました。
「ふむふむ…ええっ!?」
耳を傾ける私は鳥肌が立ちました。
なぜなら、原爆ドームの建設家であるチェコ人のレッツェルは日本へ渡る以前に、ムハンマド・アリ王朝のベル・エポック時代のエジプトに住んでいた。しかもアブディーン宮廷のお抱え建築家だった…。
ということは、つまり私が推測したように、原爆ドームはスエズ運河オフィスの建物に見習って造られた可能性が、本当にあるかもしれない…。
「あの、もうちょっとレッツェルのエジプト時代について知りたいので、ここで試験は一旦ストップして、三人でお茶しませんか?」
実施試験を受けている真っ最中の受験者の私がそう誘うと、通訳氏はそれをそのまま老婦人試験官に伝えました。高齢の彼女も疲れていたので、にっこり頷き、通訳氏も安堵の表情です。
そして観光ガイドの国家試験を中断し、並んで近くのボヘミアンカフェに入りました。こう言ってはなんですが、どうせ私が試験に合格して、無事に観光ガイドライセンスを取得できるのは、三人とも分かっていましたしね…。
「原爆ドーム建設家チェコ人ヤン・レッツェルのベルエポック時代エジプト編」へ続く
「在カイロ・オーストリア大使館に問い合わせて下さい」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅡ
「アレクサンドリアのギリシャ協会に尋ねよう」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅢ
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ノートで親しくしているユウコさんが、私の記事をご紹介してくださいました。ユウコさんの海外旅行記事はどれも実用的で忖度もなく、それでいてそれぞれの国・地域に「愛情」もあります。お勧めです✨