エジプトのホテル王だったスイス人実業家
エジプト観光に行くと、数千年前の神殿と墓の説明ばかりですが、実は近代の建物も非常に興味深く、特にチャールズ・ベーラーの名前をぜひ知っておくといいと思います。
スイス実業家チャールズ・ベーラー(1868 - 1937、 Charles Baehler )はエジプトのホテルと不動産チェーンの創設者兼所有者、国の中心部にある最も有名な回廊、建物、ホテルの所有者でした。この人物のおかげでエジプトではいまだに美しい建物を眺めることができます。
トーマス・クックの援助でアスワンに「オールドカタラクト」ホテルを建設、チャーチル部屋も!
1885 年 10 月 21 日、ベーラーはスイスを離れカイロに到着しました。エジプトではとうにアジアとヨーロッパの二つの海を結ぶスエズ運河も開通。
エジプト・コットン産業も軌道に乗り、イギリスによりエジプト国内には鉄道が敷かれ銀行も次々に創業。
エジプトは植民地下でしたが、近代化を遂げるこの国で一旗揚げようとするヨーロッパ人が次々と上陸する時代です。
1899年、トーマス・クックの援助でベーラーはアスワンにカタラクトホテルを建てます。しかし完成のずっと前にトーマス・クック氏は亡くなっていたので3年後のグランドオプニングセレモニーには代わりにウィストン・チャーチルが出席しました。
チャーチルはカタラクトホテルのスィートルーム「1101」に宿泊しました。
ところで、イギリス人のトーマス・クックはもともと宣教師でしたが、1841年に旅行代理店をオープン。1869年にはスエズ運河完成に合わせてナイルクルーズの旅を企画販売。1872年に世界周遊ツアーを売出し、1908年に日本に支社も出しました。
実は私もこの旅行社(日本ではないです)でも働き、あの赤い色のトーマス・クック時刻表をうんざりするほど一日中めくっていましたが(オリエント急行の発着到着時間など全部暗記)、途中でドイツの会社になってしまいびっくりたまげましたし、YAHOO!路線検索がネットで現れた時は、ひっくり返りそうになりました。あんなに苦労して時刻表を引いていたのは何だったんだ(笑)
アスワンのカタラクトホテルには世界中の王族やセレブが宿泊し、小説「エジプトの輪舞ロンド」でファルーク国王の妻と母親(つまり姑と嫁)がこのホテルで大喧嘩し、うんざりしたファルークが彼女らを置き去りにし、自分だけとっとと紅海のリゾート地に逃げてしまうくだりを入れました。
これは実話で、ファルークもよくこのホテルに泊まっていました。
しかし世界中の大物、富豪(つまりクセ者ばかり)が集まるホテルだったので、アガサ・クリスティは
「このホテルには悪名高い人ばかり。うんざり」
と悪口を言っています。
クリスティは1935年、カタラクトホテルの1201室に泊まり「ナイル殺人事件」を書きました。
ルクソールのウィンターパレスホテルを建設、「ナイル殺人事件」完成
1904 年、ベーラーは 1897 年に設立されたエジプシャン ホテルズ カンパニー リミテッドの株式の過半数を所有し、1906 年にはアッパー エジプト ホテルズ カンパニー リミテッドを設立しました。
1907年にはルクソールにウィンターパレスホテルを建てます。(ただし、やはりトーマスクック旅行社がほとんど資金を出しました)
ウィンターパレスホテルが有名なのはベルギーのアルベール一世と妻のエリザベート王妃がこのホテルをヨーロッパの冬の避寒先の常宿としていたこと、ツタンカーメンの墓を見つけたハワード・カーターがこのホテルで記者会見を行った、カーターのパトロンだったカーナヴォン卿がよく泊まっていた。そしてアガサ・クリスティがこのホテルで「ナイル川殺人事件」の後半を書き上げたことです。
べーラーはルクソールとアスワンのに合計5 つのホテルを所有しました。
1907 年に彼は電力会社を設立し、シェファード ホテルとその周辺地域に 2,500 馬力の電力を供給しました。
「エジプトの輪舞」にかなり登場したホテルでしたが、イギリス支配時代のカイロのアイコン的存在だった伝説のホテルでした。
カイロの高級住宅街ザマレックを作り上げる
次にベーラーはカイロ真ん中のナイル川中洲のゲジーラ(島)にある元ゲジーラ(島)宮殿(すでにホテルになっています)を買い取ります。
スエズ運河開通式(1869)にやって来るウージェニー仏皇后の宿泊先として、彼女の生まれ故郷のスペイン(グラナダ)をイメージして赤色の外壁にし、内装はアルハンブラ宮殿と、ベルサイユ宮殿二パターン作った豪華絢爛な宮殿です。現マリオットホテルです。
オリジナルの宮殿はドイツ人の建築家、ジュリアス・フランツが建築し調度品は全てパリとベルリンから運ばれましたが、今回の大幅な改築にあたりベーラーは忙しすぎたのか、それとも費用がかかりすぎたのか、このゲジーラ宮殿ホテルの改築に当たり有名な宮廷建築家アントニオ・ラシアックはベーラーの建築デザイナーの候補には挙がりませんでした。
しかし、ラシアックの義理の息子である「スキンダー&スキンダー」社のアレックス・スキンダーに依頼しました。
ちなみに、アントニオ・ラシアックはイスタンブールのケディブ宮殿とカイロのタヒラ宮殿を建設したイタリア人建築家です。(「エジプトの輪舞」の小説で、ファルーク国王が(離婚したいと言い出した)妻のファリダのご機嫌を取るため、彼女のお気に入りだったタヒラ宮殿を王族から無理やり奪いとったエピソードを入れました)
その後、1908 年にカイロのナイル川中洲の島(ゲジーラ宮殿ホテルの島)の土地を購入し、それがザマレク(ZAMALEK)地区となりました。「エジプトの輪舞」ではイギリス人地区として出てきますが、続編の現代編では「日本人街」として登場する予定です。(本当に書き上げるのならば!)
なぜこの島の土地(ザマレック地区)を購入したのかといえば、ベーラーはカイロがナイル川に向かって西に拡大しつつあることに気づき、島の農地を買い増し、都市開発会社を設立したからです。ザマレク地区を整備し高級住宅街に完成させたベーラーの功績は大きいです。
ザマレック地区の入り口には、ベーラーは今世紀初頭に旧ヘティブ(エジプト副王)の私有庭園から切り出された土地にゲジーラハウスアパートメント(のちの通称はエマレット・アル・イェメニ)を建てました。
今でも残っていますが、名称がその後のオーナーの名前になったため、この建物もベーラーの作品であることはほとんど知られていません。しかしこれも紛れもなくベーラーの作品です。ヨーロッパの建物にインスピレーションを得た装飾が特徴的です、設計はヘリオポリスで有名なアーネスト・ジャスパーでした。ザマレック地区のあるゲジーラ島で最初のイムーブル・ド・ラポール(巨大アパートメント)です。
1910年、ベーラーはセミラミスホテルのオーナーになりました。
次はサボイホテルを…しかしいわくつきのホテル
1924 年、チャールズ ・べーラーはサボイホテルを買い取ります。
(それまではグランドコンチネンタルホテルの名前で、ギリシャ系のキプロス人のジョージ・ヌンゴビッチが所有していました。1800年代はギリシャ人実業家が大いに活躍しており、よってエジプトの輪舞シリーズの1800年代編はギリシャ人移民をメインにしています)
サヴォイ(旧グランドコンチネンタルホテル)は長い間、植民地時代のカイロで最も重要なビジネスと住居の住所でした。英国系企業が駐在員事務所を構え、第1次世界大戦中に英国陸軍がGHQを設置したのも、このホテルでした。
しかし、ベーラーは近代建築の真の意味を体現する巨大な建物への道を開くために、1927 年から1929年にかけてホテルとその別館を取り壊し、大改築しました。
そしてアールデコ様式で建てられた巨大な建物を完成させます。これが生まれ変わったサボイホテルで、フランス人建築家レオ ナベリアンによって設計されました。
改築される前の「グランドコンチネンタル」ホテル時代ですが、第一次世界大戦中にはイギリス陸軍の中央司令部も置かれており、1914年にT.E.ロレンスがここに宿泊、ハワード・カーターのパトロンだったカーナヴォン卿はこのホテルで亡くなっています。
サボイ ホテルがベーラーによって生まれ変わると、このホテルの中にはイギリス企業の駐在員事務所が置かれ、カイロのイギリス人たちは「シェファードホテル派かサボイホテル派か」と好みが分かれ、どちらのホテルに集まるかグループによって違いました。伊勢丹派か三越派かみたいなものでしょうか。
ここからきな臭いのですが、1944年イギリス人チャールズ・ウィンゲートがサボイホテルで自殺をしています。
ウィンゲートとは何者かと言いますと、パレスチナにおけるユダヤ系特殊部隊(パルマッハ)を提唱し、SASの設立に貢献、シオニストを公言する情報機関の将校でした。
しかしもろもろやりすぎたため、同じシオニストたちにも距離を置かれてしまうのですが、色々なタイミングでサボイホテル・カイロの自分の部屋で自殺したそうです…。
ウィンゲートは第二次大戦中、LRDG(長距離砂漠団)のメンバーでもありました。
砂漠を延々と移動するというあまりにも過酷な任務なので、ひ弱なイギリス人若者兵士は全然使えず🤣、農業家出身の強靭な身体を持つニュージーランド人兵士とインド人兵士だけが役に立った。
オーストラリア兵士に至ってはイギリス軍の軍服すら着用拒否し、しかもカイロでは不良のようでエジプト人にも嫌われた!🤣、、、そのLRDGです。 サボイホテルは2018年に老朽化で取り壊されています。
エジプト中のホテルを所有、名実ともにエジプトのホテル王
1925年、ベーラーはメナハウスホテル(ギザにある、イスマイール副王がかつて所有していた砂漠狩猟用ロッジ)、サン・ステファノ・アンド・ヘルワン」を含む大手ホテル会社「旧ヌンゴビッチ・グループ」の資産を25年間にわたり管理することになり、これを持ちベーラーはエジプトのほとんどの主要ホテルのオーナーになりました。つまりエジプトホテル王の誕生です。
最後の作品の一つはかの有名なベーラー・ビルディング
1927 年から 1929 年にかけて、ベーラーはカイロのダウンタウンにベーラー ビルディングを建設しました。(この建物は現在保険会社が所有しています。)
べーラー ビルディングはそれぞれ専用の入り口を備えた 6 つの半戸建ての建物で構成され、商業オフィスを含む約 130 戸の高級アパートメントが含まれており、1 階はパリ風に 72 の独立した店舗に分かれています。
ビルディングのべーラー回廊(後にパサージュと呼ばれるようになりました)は、パリのリヴォリ通りのミニチュア版でした。
高級ブティックがひしめき合うこのアーケードにはヨーロッパからの最高級のの洋服店、最高級のランジェリー、流行の紳士服、そして主要な芸術家による絵画のギャラリーがたくさんありました。
まさに1952年のエジプト革命以前はここは「ヨーロッパ」そのものだったといいます。
このベーラー・ビルディングがあるのはダウンタウンのタラット・ハルブ広場です。1952年エジプト革命でこの名に変えられました。
なぜならタラット・ハルブ氏は1867年エジプト生まれ(つまりオスマン帝国生まれ)のエジプト近代化の父で、英仏が主に独占していたエジプトの金融業に侵入しミスル(エジプト)銀行、ミスルエアー(エジプト航空)、ミスル紡績織物会社、ミスル映画産業などの基礎を築き上げた人物だからです。渋沢栄一のエジプト版?
さて、1928 年から 1929 年にかけてベーラーはメトロポリタン ホテル (後にコスモポリタンホテル) をカスル(城)・エル・ニール(ナイル)通りにオープンさせました。
以前、NOTEの記事のどこかに書きましたが、昔エジプト留学の時に私が一番最初に泊まったホテルです。(ポーターが「バクシーシ、バクシーシ」と煩く、1ドル渡すと「足りない」とチッと舌打ちしてきて、とにかく顔を合わせるたびに「バクシーシ、バクシーシ」。腐った朝ごはんを出しても「バクシーシ、バクシーシ」、リフトに乗るにも廊下を歩くだけでも「バクシーシバクシーシ」要求してきたホテル。実際、ベーラーが他界した後、彼のホテルの多くのサービスレベルが低下しました)
エルサレムのあのキング・デビッドホテルーサダト大統領滞在の秘話
1929 年にベーラーはエルサレムにキング・デイビッドホテルを建設、1931年にオープンさせると、彼は経理にはスイスからスイス人を採用、ホテルレストランのコックにはイタリア人、ウェイターや清掃係にはエジプト人とスーダン人を採用しました。
食糧などは毎日カイロから運ばせ、ファルーク国王の母親のナズリ王妃も宿泊しています。(夫のファードが死に、生き生きし旅行などし始めました)
キング・デイビッド・ホテルには世界中のVIPが宿泊していますが、1977年11・19から22日までの三泊、エジプト共和国第二代目大統領のサダト(「エジプトの輪舞」の小説では旧王族に恩赦を与え、エジプトに戻れないはずだった王族たちにエジプト国籍を戻してあげた大統領です)がこのホテルに宿泊しました。
言わずもがな、この時の滞在目的はイスラエルとの和平を結ぶためで、実際にこのホテルで和平締結に署名をしました。
サダトが三泊する間、アラブ人のホテル従業員は全員強制的に休みを取らされ、ユダヤ人の従業員のみ出勤になりました。ホテル側がアラブ人従業員によるサダト暗殺を恐れたからです。(イスラエル政府の指示があったかどうかは不明です)
また、サダト・エジプト大統領が宿泊した時、ホテルにイスラエルの国旗とエジプトの国旗が並んで上げられました。イスラエル国旗とアラブの国の国旗が同時に上げられた最初の瞬間です。(しかしオチとしては、結局サダトは暗殺されてしまった…)
今日のエジプト中の美しいホテルは全てベーラーのおかげ
1937年9月12日、チャールズ・ベーラー氏がルツェルンで虫垂炎の合併症のために亡くなったとき、エジプトの観光客とホテル業界は大きな打撃を受けました。
ベーラーの功績は次々に高級なホテルやビルを建てていっただけではなく、それらの建物の役割と街との調和について非常に熟知し、それらを完成させたことです。
ベーラーがいなければ間違いなく、ここまで芸術的なホテルなどの建物が生まれていなかったでしょうし、率直に言ってカイロもルクソールも趣のない街という印象になっていたでしょう。彼はエジプト各地に色合いを与えた、アートを建てたと言ってもいいかもしれません。
今ではベーラーが建てた建物のうちのいくつかはもうありませんが、失われた建物も含め、いずれも彼の建物は人々の記憶と記録に残されており、また現存するベーラーの建物はいまだに古いデザインではなく、全て新しい建物群に全く劣っていないことです。
カイロのベルエポック建築を紹介する出版された本『Paris Along the Nile』の表紙を彼のダウンタウンのビルが飾っていることも、ベーラーの偉大さが評価されている証明の一つでしょう。
もしカイロに訪れたら、観光バスの中からタラットハルブ広場のベーラー・ビルディング(普通は側を通りますので)も見てくださいネ。
参照