差別医療 今も昔も違憲
長年、精神医療に貢献されている
精神科医の岡田靖雄さん。
医師を志したきっかけは、母親がパーキンソン病になったことだ。
症状が進むと、投薬の影響か、母親は盗み食いを伴う過食症状に。
岡田さんにとって精神疾患は身近だったという。
1951年に東大医学部に。
当時の学び舎は権威的だった。
臨床の授業で、ある教授が実際の患者の身体で病状を解説。
だが、説明が終わっても上半身裸で教授の横に座らせていた。
患者は女性だ。
「ここに学ぶべき師はいない」
と精神科志望を鮮明にした。
1956年に医師になり、10年近く都立松沢病院で精神科医としての眼差しを学んだ。
この国の精神科医療に「法の下の平等」はあったのか。
閉鎖病棟は「不潔病棟」と呼ばれ、
汚物が壁に塗られ環境は劣悪。
通常は一年で交代するが、岡田さんは
希望して4年間担当した。
この国の精神医療は虐待問題や安易な身体拘束、医師や看護師の配置基準も少ない。 日本の病床数の多さはナチスの精神疾患の患者殺害、
旧ソ連の反体制運動家収容と並び、
世界の三大精神科アビューズ(乱用)と語られる。
日本の病床数の多さについて岡田さんは 「僕は高度経済成長が引き金だと思う。 戦争が終わり、追いつけ追い越せと農村から都市部に人を流入させ、農村部でなら生きていけた精神障害者が邪魔になった。 〝収容〟した方が安くつくと精神科病院が量産されていった」。
岡田さんは言う。
「差別医療が徹底され、昔も今も違憲状態だ」とし、「精神科の病院運営はほとんどが民間任せ。 民間の病院を擁護するつもりは全くないが、国は責任を持たなかった。 その不作為を認めるところから全てが始まる」。
精神疾患を巡り差別的視点も根深い。 「差別をなくす術は常識とされていることを疑うことだ。 それを重ねていると差別の芽も小さくなる。自分の頭で判断していくということだから」。
例えば、世界保健機関(WHO)の「健康」の定義。
「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態」とするが、
岡田さんは全否定する。
「完全に良好な状態の人間なんているのか。健康とは、悪い所を抱えてそれでも生きていくことだ」と説く。
岡田さんは私財を投じて、2005年に精神関係の資料室 「青柿舎(せいししゃ)」を創設し、臨床の傍ら精神科医療史の研究をされている。
「歴史とは過去のことではなく、現状を照らし出す光。それによって現状の立体構造が見えてくる。歴史から学べるものは現状の深い根だ」。
青柿舎にはある肖像画が掲げられている。 1918年に精神疾患のある人が自宅の私宅監置に閉じ込められた実態をまとめた東大教授 呉秀三だ。
「我が国十何万の精神病者実にこの病を受けたるの不幸の外に、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし⋯」との言葉を残した。
岡田さんがこの言葉を知ったのは1962年頃。
「こんな言葉を吐ける人が東大にいたのは衝撃だった。だが、精神科医療の現場では全く知られていなかった。 この言葉が省みられなかったことに、日本精神医学の正体を見た気がした」と憂う。
※東京新聞の記事より一部抜粋