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#8 「誰々は使えない」という表現が嫌い

自分が言われたとか、特定の案件で嫌な思いをした、とか具体の話ではないんですが、こういう言葉を聞く機会があり、その度イライラしてしまうので、気持ちの整理のために文書を書くことにします。

私は何も「人に対して、道具のように『使う』という表現をするのはけしからん」とか、そういう話がしたい訳ではありません。何なら自分も「自分のために人にうまく動いてもらうようにけしかける」時に「〇〇さんを使う」という表現を結構しちゃう方です。

じゃあ、何が嫌って?

その「使えない」という否定型の文書に、とにかくイライラするんです。

人に対して「使えない」と評する人は、自分の思っている利益がもたらされないことにイライラして、そのセリフを発していることが多いと思われますが、こう言った人が「使えない」と言ってしまう理由を探っていくと、3つの理由があります。

1つ目は「使う側の管理能力の低さ」です。

こういうセリフを吐いてしまうような人だから仕方ないのですが、往々にして「使われる側」ではなく、「使う側」に問題があることがあります。置かれた状況を把握できていない、明確な作戦が練れてない、的確な指示が出せてない etc......  それなのに、イライラに任せて、周囲に聞こえるように「〇〇は使えない!」と愚痴を吐くのは、まるで「自分は管理能力がありません!」と声高に言ってるようなものです。相手に対してイライラする前にまず管理能力の低い自分を反省すべきです。

2つ目は「使う側の期待値の高さ」です。

人を「使えない」と評する前提としてその相手に対してある程度「使える人」だという期待を抱いている、ということになります。「使える人だと期待していたのに、思いの外使えなかった」というギャップから残念に思ったり、イライラしたりしてしまうのでしょう。しかし、これも本当は期待値を高く見積もり過ぎた自分を反省すべきです。

そして最後は「自分も相手から見たら使われる側だ、という認識の欠如」です。

人対人、人対組織を問わず、大半の社会的な関係は契約や社会通念から、(奴隷制度でもない限り)本来的には対等です。これは上司対部下(職位規程)、会社対社員(雇用契約)、委託先対受託先(委託契約)、あらゆる関係で言えることですが、お互いに使い、使われる関係であるはずです。

もちろん、いろんな要因(大概が金銭だと思いますが)によって、どちらかが強い力を持つことは多々あります。それでも、長期スパンで見るとウィンウィンの方がサステナブルだし、互いによく使い、よく使われる関係性が健全といえます。(そもそも今の議論は国家や大富豪といった超がつくほどの権力と一個人の話ではないので考えていません)

そんな歴然とした差のない関係性にも関わらず、ウィンウィンを目指す方が自分にとってもお得なはずの相手を「使えない人間だ」と評する人は、その発言によってみすみす自分が損してることに気づいていません。実際その発言が周囲に与える負の影響も想像できてない訳ですし、発言そのものが損に繋がっています。

ここまで「使えない」と発言してしまう人の愚かさをグチグチ書いてきたわけですが、じゃあちゃんと人を使う、人に使ってもらうにはどうすればよいか?

相手に対する期待値を適切に下げて(過小評価はしない)、どうしたら自分のために思った通り動いてもらえるか?をちゃんと考えた方がよっぽど身になると思いますし、突き詰めていくと、「相手に敬意をはらって、出来るだけ長所を見つけて、それが活きるよう気持ちよく動いてもらう」のが、正攻法だと思います。

何か知らんけど、どこぞの社長のインタビューみたいな偉そうな感じになりました、、、寝ます。

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