指揮者とリーダーシップ
はじめに
クラシック音楽が好きだというと決まって、「楽器やってたの?」と聞かれる。
確かに経験上、「クラシックが好きだ」と公言している人の大半が、いや、ほとんどが、小さいときからピアノやヴァイオリンを習っている。過去の名録音を漁るのも、大概が自らの練習の参考にするためという、言わばリファレンス的な目的である。多様な娯楽が溢れる現代において、クラシック音楽をわざわざ取り出して聴こうとする動機も、それくらいしかないのだろう。
しかしながら、「楽器をやっていた人」が聴くクラシック音楽は、どうしても「自分の演奏する楽器の模範的な演奏」が優先されやすい。彼らにとって、私の好きな「フル・オーケストラによる音楽」はぴんとこないようだ。私はといえば、楽器どころか歌もままならないような人間なので、どんな音楽を聴こうが何のしがらみもない。負け犬の遠吠えかもしれないが、この点に関してはささやかな誇りを抱いている。
オーケストラの難しさ
なぜオーケストラに魅力を感じるのか。
クラシックというのは既存の楽譜を個々の演奏家が解釈する、二次的な芸術である。
ピアノやヴァイオリンのソロならば、もうそれは完全に、一人の演奏家の頭の中の世界である。弾き手は曲の世界観をどう自分の側に引き寄せるかを考えに考え、それに少しでも近づくよう練習を重ねる。室内楽(ピアノとヴァイオリンとチェロが一人ずつ、など)の場合も、演奏者間でのすり合わせこそ困難なものの、大枠にそれほどの違いはない。
ところが、オーケストラとなると、事情がかなり変わってくる。
オーケストラには、少なくとも50人、多ければ100人を超えるメンバーが在籍する。コーラスが入ると、舞台の上にいる人数はさらに二倍、三倍と増えるだろう。それだけの人間が一斉に音を出し、音楽をやるとなると、これは大変なことである。
何が大変かというと、一人一人が曲を解釈する余地がないのだ。
最も分かりやすい例はテンポで、全員が頭の中に違うテンポを思い浮かべていたとしたら、必然的に音楽は瓦解していく。また、これだけの大人数になると、メンバー内でコミュニケーションを図るにも、限界がある。
そこでメンバーは「解釈」の部分すべてを、「指揮者」と呼ばれる人に委任する。一時間近くある交響曲で、どこの部分をどんなテンポでやるか、メリハリをどう付けるか、各楽器の連携はどうするのか、全て指揮者一人が決める。
それ以外の楽員たちは何をするかというと、指揮者が出す指示に徹底して従うのだ。言わば、指揮者が楽曲のプロデューサーで、実際に音を出している弾き手は、技術的な側面から指揮者の解釈に花を添える、テクニシャンなのである。
となると、オーケストラ演奏というのは、単なる演奏家の解釈だけで済まないということをご理解頂けるだろうか。
「解釈者」たる指揮者が楽曲を考察し、自分なりの世界を繰り広げただけでは、音楽にはならない。それに加えて「人前に立って自分の世界観を説明し、それを実現してもらう」という、極めて人間的なプロセスが必要なのである。言い換えれば、ピアニストやヴァイオリニストとは違い、指揮者は「解釈者」であるにもかかわらず、その解釈を自ら結実させられない。それを他人にコミュニケートし、「やってもらう」ことをしなければ音楽を作れないのだ。
権力者である反面、極めて非力な存在と言えるだろう。
当然、伝達は「人と人」の間で行われるので、感情が入ることもあれば、齟齬が生じることもある。それによって音が如実に変わっていく。テクニシャンだって、一人のれっきとした人間なのだから。ここに、オーケストラ芸術の奥深さと、難しさがある。
十人十色の個性を最大限に生かして、団体として最高のパフォーマンスを生み出す。指揮者というのは、単なる一芸術家に留まらない、「リーダー」としての側面を持つことがわかる。では、どのような人間が、「リーダー」たりえるのか。
【動画あり】巨匠たちの後ろ姿
人に何かをさせる、というのは難しい。
私などは四~五人のグループにプレゼンテーションの原稿を書いてもらうときでさえ、「どうやったらやる気にさせられるかな・・・」と常に考える。毎回のようにやり方を変えるのだが、どうも安定してはうまくいかない。ましてや100人を超えるプロの楽員たちを相手に、自分のカラーに染まった音楽をやらせるというのは、並大抵のことではなかろう。ここでは一昔前に活躍した、「巨匠」と呼ばれる指揮者たちの人となりを見ていく。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)は、その圧倒的な存在感から「帝王」と呼ばれていた。若いころにナチス・ドイツの党員だったことと関係があるのかは知らないが、彼は絶対的な権力者であり、自らを神格化することを求めた。積極的に録音を行い、端正な指揮姿をアップで映したビデオを世界中に売り出した。彼は自身のかかわるもの全てをコントロールしようとした。楽団員の出す音に対してはもちろん、専属のカメラマンや録音技師、歌劇の演出家などにも細かな注文を出し、考えの異なる人は一切採用しなかったという。彼が作る音楽は重厚・壮大なもので、クラシック音楽演奏史の金字塔ともいえる。しかし晩年は、あまりにも長い独裁体制に耐えきれなくなった楽員たちとトラブルを起こし、失意のうちに亡くなった。
ミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」の作曲者でもあるレナード・バーンスタイン(1918-1990)の態度は、カラヤンとは対極に位置する。ユダヤ系アメリカ人という国民性も左右してか、彼は楽員たちとファーストネームで呼び合うような関係を築いた。情熱家で、指揮台の上で楽しそうに踊るなどのパフォーマンスを交えながら、独特の語り口で団員たちを惹き付けていった。教育者や社会活動家、司会者としての一面もあったようだ。ただし、音楽の細かいところを詰めることにはあまり興味が持てなかったらしく、彼の録音にはやや粗雑な箇所も多々見られる。
法学士の学位も持つカール・ベーム(1894-1981)は、典型的な職人肌と言える。生真面目な風貌で、厳格に指示を飛ばす。音楽のテンポは教科書のように一定で、棒の振り方にも華はない。口は達者でなく、話にもわかりにくいところがあった。にも拘わらず、楽員たちは彼の不器用な人間性を敬愛していた。厳しい指示から、あれほど暖かく余韻の残る音楽を生み出せたのは、彼だけがなしえた奇跡と言えよう。「真面目」で、「教科書のよう」な口調から、全くステレオタイプでない、はっとするような音楽が紡がれるのである。
カルロス・クライバー(1930-2004)は、まごうことなき天才であった。「音楽の化身」のような華麗な指揮姿。快刀乱麻を断つかのような、色彩感あふれる、鋭い切れ味の音。他の指揮者にはない文学的な指示。「エンジンが点火を要することなく回転するように」とか「保安官がコルト銃を抜くより速く」とかいった言葉で、音楽を自在に操っていくのがすごい。リハーサルで満足いく演奏が出来なかったら演奏会の直前にキャンセルするほどの完璧主義者で、それが彼のカリスマ性をさらに高めていた。ただし、実際は極度の人間恐怖症だったらしい。ある日を境に公の場から一切姿を消し、五年後に一人で亡くなっているのを発見された。
クラウディオ・アバド(1933-2014)は、民主的なリーダーだ。楽員たちには一切専制的な態度を取らず、あくまで奏者たちの自主性に任せ、自らは裏方に徹し続けた。プライベートでは孤独を愛し、楽譜の研究を続けた。教養に裏付けられた信念は抱きつつ、他人とのバランスを取りながら新しいことをやっていく、静かなる革命家とでも言おうか。彼の屈託ない音楽は新しい時代のスタンダードともいえるが、その「癖のなさ」ゆえに、優等生的であるとか面白味がないなどと批判を浴びてしまったのは残念だ。
リーダーシップとは何か
さて、五人の指揮者を見てきたが、改めてリーダーシップとは何なのか、どのような人間がリーダーに適しているのか。ここまでお読みになった諸君はお気づきだと思うが、
この問いに答えなどないのである。
100人いれば100通りのやり方があり、人を惹き付けるには一概にどうすればいい、などと言うことは不可能なのだ。
ただし、一つだけ確信を持って言えることがある。
リーダーは皆、自分のやり方に対して自信を抱いている、ということだ。
話が上手かろうが下手だろうが、天才だろうが努力家だろうが、丁寧だろうが雑だろうが、そういうことは関係ない。たとえ自分に何かしらの欠点があっても、それは自身の個性と割り切り、どうプラスの方向に生かしていくかを考えるべきなのである。もしもカール・ベームが、カラヤンのような華々しさに憧れて自分のスタイルに劣等感を抱いていたとしたら、あれほどの巨匠にはなれなかっただろう。
たとえあなたが顔もぱっとしなくて、口下手で、要領よく人と渡り合っていく技術を持っていなかったとしても、自信を失わず、それを貫いた上で自分の得意な部分を一生涯伸ばし続ければ、自然と他人は後から付いてくるのではないか、などと考えるのである。もっとも、自分の専門分野の勉強を納得いくまで深めていなければ元も子もないのだが・・・。