20000204 徒然草の論理
徒然草$${^{*1}}$$の第二百九段にこんな話がある。
人の田を論ずる者、訴(ウツタ)へに負けて、ねたさに、「その田を刈(カ)りて取れ」とて、人を遣(ツカハ)しけるに、先(マ)づ、道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」と言ひければ、刈る者ども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事(ヒガコト)せんとて罷(マカ)る者なれば、いづくをか刈らざらん」とぞ言ひける。
理、いとをかしかりけり。
訳(いい加減な自己流)
ある人の田のことで言い争っていた者が訴えに負けて、悔しいので腹いせに「例の田圃の稲を刈り取れ」と人に命令した。すると命令された人は途中の関係のない田の稲を最初に刈り取り出しているので、「そこは件の田圃じゃないぞ。どうしてそのような事を」と(誰かが)言えば、命令された人は「件の田圃だって刈り取る理由はないのです。間違ったことをやりに行くのですから、どこを刈らないでおくということもないのです」と言ったそうだ。
理由がなんとも変だなあ。
命令された人の理屈が興味深い。吉田兼好$${^{*2}}$$は変な理屈だと言っているが、数学的論理からすれば正しい理屈だ。
「AならばB」という命題があるとする。この命題が正しい、つまり「真」である時は、Aが「真」でBが「偽」の時以外である。仮定が「真」の時に結論が「偽」ではお話にならない、命題が成り立たない、「偽」であるということだ。これ以外はいつも「AならばB」は「真」である。
Aが「真」、Bが「真」の時は「AならばB」は「真」。これは分かり易い。Aが「偽」の時はBが「真」であろうと「偽」あろうと「AならばB」という命題は「真」である。つまり仮定となるAが「偽」の時は結論Bを「真」にでも「偽」にでもすることができる。もともと間違っている仮定ならば結論は何であろうと「AならばB」という推論は成り立ってしまうということである。
田を刈れと言われた人は仮定A「腹いせに言い争いの相手の田圃の稲を刈っていい」ならば結論B「どこの田圃の稲を刈ってもいい」と考えた。一方、仮定Aは道理からすれば「偽」。
従って彼の理屈は正しい。
*1 徒然草下
*2 徒然草/吉田兼好