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話がきれいすぎる
昨日、気の置けない友人2人と久しぶりにオンラインで飲んだ。気づいたらAM2:30。6時間近く喋り続けていた。
誰に約束するでもなく目標とするでもなく続けていた毎日のnote投稿、すっかりアップを忘れて日をまたいでしまった、、
自分が本当に仲良いと感じる人は、自分と根底的に通ずるものはありつつも、
表に出ている”その人らしさ”は全く別のタイプのように見えたりする。
自分が好きな友人は、なんていうか、とても論理的だ。問題解決能力が高いというか、話がめちゃくちゃ進みやすい。
そういう相手と話すリズム感というのは、日常ではあまり接しない類のものだから、とても心地良かったりする。
その友人の1人が転職をすることになり、自分がこれまでどういうキャリアを歩んできたのか、今の職場で得たものと課題感、なぜ次のキャリアを決めたのか、流れるように話していた。
その話がとてもスムーズだったからこその、ちょっとした違和感があった。違和感と言っても、ネガティブなものではない。”スムーズすぎて違和感がないこと”自体に対しての違和感、という類のもの。
なんていうか、話が首尾一貫しているのである。論理がきれいに通っていて、変な引っ掛かりがないので、理解しやすいし、スルスルと飲み込みやすい。でも、飲み込みやすすぎるのである。ツッコミどころがないという。
ただ、話している本人は、自分の新しい一歩にどこか昂揚感を持っているようにも感じた。
だから、友人として純粋に尊敬するような気持ちと、応援する気持ちと、自分も自分なりの一歩を踏み出そうという気持ちが素直に湧いてきた。
一方で、”相変わらず、きみの話の筋はきれいだな〜”と、ちょっと面白がっている自分もいた。就職活動の面接じゃあるまいし、そんなにきれいに話さんでもいいのに、というかんじの。
そのすっきり通った論理の裏には、本当は、不安とか、うまくコンシールされた不合理性も隠れていそうだ。
不安や不合理性は、聞き手のツッコミを受けやすい。だから、論理武装をする。話がきれいになっていく。それは、ビジネスライクなやり取りでは、マウントを取られないためにもある程度必要になることだと思う。
ただ、なんていうか、論理が大切にされすぎているような気がする。”聞き手が理解・納得・共感できるように”筋の通ったストーリーを組み立て話すことが。
でも、パーソナルなことについては、論理がきれいに通っていなくても、いいと思う。
もちろん、人に説明して理解してもらったり、共感を得たい場合には、ある程度の論理(話の筋道、分かりやすさ)は必要だ。
それでも、論理を超えたところの”自分でもよく分からんし説明できんけど、こうしたい”をもっと信じてあげてもいいんじゃないか、とも思う。人に対しても自分に対しても。
その友人に対しては、”もっと自分の未熟な本音の部分や感覚的な話を聞かせろよ”って思った。そういう”よく分からん”ことが、その人の”らしさ”な気がしている。
昨日話したのは、元々同じ職場で一緒に働いていた元同僚たちだ。
一緒に働いた時間は3年にも満たなかったけど、その時間の濃さで、同僚という関係性を越えて気の置けない友人という関係になった。
その3人が3人、違う道を歩こうとしている。一人はずっと同じ職場にいて、その中での変化に出会いながら歩いている。一人は次の職場に移り、そこからまた次の職場に移りと、道を変えながら歩いている。一人はそろそろ舗装された道からおりて、自分の道を歩きたいと思っている。
それぞれの道を歩きながら、旅の途中でそれぞれの冒険譚を語り合うのが楽しみだ。