2023年2月5日、パリ13区――京都上京区にて。
この人が存在してくれて良かった。
と、思える映画。
それが、昨年に見つけた、自分の好きな映画の定義。
義を定めるのは苦手だ。そこから零れ落ちる対象が存在することを思うと、大胆に絞り込むことをためらってしまう。
だけれど、2022年の映画体験を振り返れば、この定義は自分にとって、完全だと思う。
『窓辺にて』の市川さんも、『劇場』の永田も沙希も、『C’mon C’mon』のおじさんも。
これらの作品は、彼らの存在は、私にとって「良い」ものだ。その事実は確固たるもので、他者に介入の余地は無い。
居てくれて、ありがとう。
観た直後の感想をひと言に集約すれば、「その人間が存在することへの有り難さ」に尽きる。
『窓辺にて』後、多くなりすぎた感情を御所で独り、ひとしきり呟いたボイスメモ。
『劇場』を下北沢の劇場で、又吉さんを初めて拝んだ日、帰りの高速バスの暗闇で書いたメモ。
『C’mon C’mon』、あまりにも、大きな、作品だった、から、言語化出来ない、けれど、言葉にできないなりに、恐らく書いたであろうメモ。
あの時送れなかった感想。
振り返ってみれば、自分は毎回同じようなことを言っていた。
彼らの存在は自分の為にあると思った。というか、ちゃんと錯覚させて貰えた。
なぜか。彼らの共通点は何だろう。
まず、その人の中に、自分(私)の分子が少なからず含まれていること。
それから、ままならない現実を生きていること。凸凹、もっと言えば何かしらの「欠陥」があること。
勿論、その地点ごとの自分にとって、ある程度(いや、ど真ん中で)タイムリーかどうかという因子も大きい。
スクリーンに映る人間の中に、自分が存在するかどうか。
もっと多面的な見方ができる人になりたいとも思う。けれど最近、主観に全振りしたこの見方を、恥じる必要は無いと思うようになった。
というより、「刺さる」映画って、自分の付属品を一瞬で取り払って、剥き出しになった状態でしか観られないようにしてしまう映画のことを言うんだとも思う。
今日出逢った、『パリ13区』の住人たちもまた、そんな人間たちだった。
存在してくれて、有り難かった。
たすかった。
初めてのオールナイト上映。初めての京都みなみ会館。初めての歩道橋疾走。
4本立ての1本目。
安心したい。
生きていてもいいんだと思いたい。
だから、簡単な方へ。
傷つかなくても済む方へ。
安易に安心させてくれる方へ。
自分が観たい自分でいられる方へ。
そうだよ、からっぽだよ。
「なんで普通に喋れないの」
ここで2023年2月のnote下書きは途絶えていた。
「愛とは利他」。
今日聞いたけれど、私もはっきりとそう思っていた。
そして、突き詰めた利他のかたちは利己と結びついていることも。
フロムの『愛するということ』は大切な本だ。
映画を観ることは、その時の自分の位置をはっきり知らせる作用があると思う。
それが自分に近い映画であればあるだけ。
2度映画を観ることは、その間に起きた自分の変化を見ることでもある。
2023年の感想。
どうしようもなく、どうってこともない孤独のなかで生きている彼らがいてくれてよかった。
なんとかして、孤独を埋め合わせて生きている。
なんともないふりをして、その日その日を適当に過ごしてはみるけれど。
そこそこ上手くやっていく社会性は身に付けているけれど。
世を厭うことが許されるほど、恵まれない境遇でもないけれど。
本当は誰かに「本体を」愛してもらいたい。
そう思っている彼ら(特にエミリー)の心の底にあるのは自分の感情だった。
そして今年2024年3月、『パリ13区』鑑賞2回目。
私は健康になったと思った。
私はよい人に出逢ったと思った。
これが第一の感想。
映画を観ていたのか、自分を観ていたのか。
去年観た時には覚えたはずの、「繋がることの難しさ」に対する共感が、もう無かった。
みなみ会館で観たあの時、どうしようもなく深く理解できてしまった「それ」は何だったのか。
最後の「je t'aime」の印象が強く残った。
人を愛するということ。
それはやはり、自分を愛することにもつながっている。
あの「je t'aime」は、エミリーに宛てたものでもあるけれど、「自分は孤独である」という事実を受け入れられたカミーユ自身のひとつのマイルストーンなのかも。
他者を通じて、自分を知る。
映画を通じて、自分を知る。
どちらも愛の過程なのかもしれない。
そして他者(人間)にせよ映画(作品)にせよ、自分を知るための媒介として機能する上では、自分と近いかどうか、が重要なファクターになる。
つまりは、ある側面においての「自分との近さ」は愛に近づくための条件ということか。
私はこのことを『パリ13区』から、そして、2度の『パリ13区』鑑賞の間の、どうってことのない孤独な期間の経験から考えた。
2回目に観ても、やっぱり私はこの作品で私を観ていた。
良い映画だった。