〜歴史偉人録〜総括編:01

〜zakimiya辞書〜作成について


はい、今日も社会の歯車⚙️として頑張ってますか〜❓

毎月25日を給料日にしている会社が多いと思います

私の本業もバイト先の雀荘どちらも25日なんですが、雀荘からの給料が振り込まれてませんでした…

あれ、おっかしいなぁ…

確かに先月の本走は大敗喫したけど、給与額とGB代(ゲーム代バック)できっちり相殺出来とる筈なんだけどなぁ…

おそらく¥2,000程度だけど交通費だけは無傷である筈なんだけど、何で振り込まれて無いんかなと疑問に思いました

金額が安いのでわざわざ店長に物申すのも些か気が引けたのですが、そもそも安い時給の中で本走などリスクを背負って勤務してるので請求すべき点はちゃんとすべきだと思った点と、私が雀荘で働く事において最大の目標をブレさせる事が嫌でした

最大の目標
例え麻雀がどれだけ弱くとも絶対に給与でマイナス収支だけは断じて作らない事‼️

言い換えれば、給与をマイナスにした事が無いという事実を絶対維持する事‼️‼️

その事実こそが雀荘バイトで生き残ってるという唯一の誇りでも有り、それが雀荘勤務でのモチベーションに繋がってました
٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

生き残ってるといえば大袈裟に聞こえますが、実際うちの店のバイトは、台風の時🌀の屋根瓦のようにバンバン飛んで行くので…
(雀荘の男バイトはエクスペンダブルス=消耗品)

うちの店はグループLINEが有るので、新人が入ると必然と分かる訳ですよ

ただ、出航中に新しいバイトが入ったと思えば、その出航中に居なくなってる事も多々有るので…

驚いたのが店のグループLINEを抜けるのに、最速1時間という記録が有りましたね…

は、1時間⁉️

え、どういう事❓

え、一体何があったのよ😅w

なんですけどねw

出航時25人ぐらい居て
→出航中に30人ぐらいに増える
→でも下船時には25人ぐらいに戻ってるみたいな感じですw

ちなみにこれ書いてる間にも、in⇆outが4時間という記録が出ましたw
(女子だから珍しいパターン…)

このマイナスを出さない事に拘るのは、自分の性格上1度でもマイナス収支を許容してしまうと、「もういいや〜」と箍(たが)が緩むのでね😭w

話が逸れましたが、そんなこんなで不審に思い店長にLINEで給料明細書を見せてけろと連絡すると…

まぁ、なんて事でしょうw

給料明細書に数字が何一つ書かれていないでは有りませんかw

マジで白紙や…
(名前だけは書かれてありましたけどねw)

これは推察ですけど
時給分と本走負債が丁度プラスマイナス¥0だったので、それで出勤していないと看做されたんでしょうねぇ…

もし仮に本走負債が時給分を上回っていたとしても、交通費は非課税枠なので課税対象である本走の負債と相殺する訳にはいかないので、完全に給与担当者のミスですね

店長が申し訳ない、と詫びてはくれましたが

ただねぇ、給与間違えられるのこれで3回目なのよ…
(まともに「うむ!(納得)」て、なった給与1回しかないんですよ…)

いくらなんでも給与担当者が余りにもポンコツ過ぎやしませんか…
(中央で集中管理らしいです)

流石に「いい加減にしてくれんかね…」と思う今日この頃です

皆さんも給与明細を鵜呑みにしてはいけません

自分達のお金は自分達でちゃんと守りましょう

(珍しく良い事言ったばいw)


zakimiya推参なり‼️

前回、〜歴史偉人録〜総括編:00を🆙させて頂きましたが、如何だったでしょうか?

総括編:00では、「◯◯の野望」の武将データの不満から、戦国武将を中心に偉人たちを紹介していきますとの予告をしてました

と、いう事で今回ピックアップしたい武将について色々調べたら…

まぁ面倒な事にぶち当たりまして…

と、いうのもその武将が立身出世していく中で、何百石貰っただの、治めた領地が何千貫だの率いた兵力が如何程だの云々ありましてね…

「別にいいんじゃね❓」

「気にしねぇよ、そんなの」

と思ったのですが、無視して進めていく事にAB型の僕ちゃんとしては強い抵抗が有りまして、やっぱ気になるんですよw

とりあえず、今後のためにもここはしっかりと用語解説をする必要があると思い記載しました

はっきり言ってつまらん内容ですw
(興味ある人には分かり切った内容なので、どちらにしてもつまらん訳ですw)

労力掛けた割に、自分で見返しても地味つまらん内容なので…
(作成に丸2週間掛かりましたw)

全く興味無い方がこのnoteを読むと、非常に寝付きが良いかと思われるような内容です😴w


⚠️注意事項⚠️

これはあくまでも私の独断と偏見に基づく調査結果なので、決して鵜呑みにしないで下さい🙇‍♂️

雑学程度に見て頂ければ幸いです♪

もし事実と違えばその際はコメント📝欄に
「それは違うよ」
と訂正内容を書き添えて頂けると、非常にありがたいです♪

随時修正します

何より自分自身の見方や考えも改まりますし、勉強になります♪

その際は是非ご教授下さい♪
╰(*´︶`*)╯♡


〜zakimiya辞書〜戦国編:01


大名とは

大名の定義

  • 知行高が1万石以上の武士(戦国時代)
    将軍から領地を与えられ、主従関係を結んだ1万石以上の武士 (江戸時代)
    1万石以上の所領を有する大名を「藩主」と呼ぶ (江戸時代)


まぁ、この辺については解説はあまり必要でないかと思います


戦国時代の土地事情について


この解説が1番面倒かったですw

戦国時代をざっくり表すと
室町時代末期の応仁の乱で、足利幕府の権威は大いに失墜し、そこから実に1世紀近い内乱状態へと突入します

この内乱の1世紀こそ、俗に云う「戦国時代」ですね

お互いに血を流して🩸凄まじい土地の取り合いが行われます

「この土地事情が何の関係が有るの❓」

って話なんですけど、後述する税制度に深く関わってくる部分なので、解説は避けられませんでした…😭😭

まず、戦国時代〜江戸時代において租税法が大きく2種類に大別されます

「貫高制」と「石高制」です

この2つの違いとして
お金で表すのが「貫高制」 お米で表すのが「石高制」

と、ざっくり覚えて頂けたら良いかと思います
(これだけ知っておけば大丈夫です👌)

この「貫高制」の特徴の一つに中世の「荘園制度」を排除していない土地制度があります

はい、出ました「荘園制度」という不可解な単語

こういうの調べると色々出て来るんですよ…

租税の解説する前に、少し「荘園制度」についても解説しましょう

「荘園制度」とは

「荘園制度」誕生までの経緯
大化改新後、官僚制度や地方制度、法令制度などの整備が徐々に進み、7世紀末~8世紀初頭には律令制が成立し、中央政府による統一的な土地・民衆支配が実現した(公地公民制)
その基盤となったのは班田収授や戸籍などの制度である

しかし、平安時代になると公地公民は崩れ、荘園と呼ばれる私有地の存在が認められるようになる
そのため、各地は国府が管理する国衙領と私有地である荘園にほぼ二分される(荘園公領制)

国衙領については国府が大田文と呼ばれる台帳を作成し、農地の面積や収量を把握し、徴税の基礎資料としていた

「古代荘園」に関しては課税のための調査も課税もできない


古代荘園とは
律令制の下で、高位の身分(皇族や貴族)には公務に準ずる活動とその収入源(土地所有)が限定的に認められ、自ら役人を派遣して支配する土地を所有した
これを「古代荘園」と呼ぶことがある


開墾の奨励と「荘園」誕生まで
奈良時代初期は、律令に基づいて中央政府による土地・民衆支配が実施されていた

7世紀後半から8世紀初頭にかけて、国家主導の耕地開発が大規模に行われた
この土地が班田収授法に基づき平等に分配されたことにより、日本の人口は増加した
反面、8世紀初頭には、班給すべき口分田が次第に不足するようになった
なお律令の規定では、農民自身が新たな開墾を行なうことも認められ、その墾田の耕作権を開墾者一代に限り認め、口分田以外の耕作地を持つことを許した
墾田は輸租田の扱いであり、収穫の中から田租を納めた
また、田の耕作権が死後に収公されることも同じであり、耕地開発の動機付けは必ずしも強くなかった

そこで、722年に長屋王の政権により「百万町歩開墾計画」が策定された
この計画では、国司及び郡司に対して農民に食料と農具を支給して10日間開墾作業に従事させるように命ずるとともに、荒地を開墾して一定以上の収穫をあげたものに対する報償(勲位や位階)を定めるなどして、百万町の良田の開墾を目指した
しかし、この計画は非現実的なものであり、すぐに立ち消えとなった

翌年(723年)にはより現実的な開墾奨励策として「三世一身法」が発布された
「三世一身法」では、新たに池や用水路を設けて開墾した田地については三代(本人、子、孫もしくは子、孫、ひ孫)の所有、古い用水路や池を利用して開墾した田地については元来の規定通りに一代限りの所有を認め、期限付きではあるが開墾した農地(墾田)の耕作権の私有を認めた

「三世一身法」の発布により、各地で郡司や官人、寺院、有力農民などによる開墾が行われた
この「三世一身法」が律令制(公地公民制、公地主義)崩壊の端緒とされる
一方で、期限が到来する墾田は収公されてしまうため期限が近づくと耕作意欲が失われて田地は荒れてしまうという問題もあり、開墾奨励効果は限定的であった

またこの頃、政変(長屋王の変)、天平の疫病大流行が起こり、政治・経済の立て直しが必要となった

そこで政府は新たに743年に「墾田永年私財法」を発布し、墾田の耕作権の永年私有を認めた
「墾田永年私財法」の内容は主に以下のようなものであった
1. 「三世一身法」では墾田の所有期限を三代と定めていたため、期限が迫ると耕作が放棄されてしまっていたが、以後は墾田の私財としての永年所有を認める
2. 開墾の意思のあるものは国司に申請する。他の百姓の妨げになる場所の開墾は認められない
3. 3年が経過しても開墾が行われない場合は他のものが開墾することを認める
4. 国司は任期中に国内の墾田の検田を行い、申請が正しくない墾田や耕作を続けていない墾田を収公した
5. 位階によって所有できる墾田の面積の上限を定めた
6. 国司が開墾した田地は、任期が終了した時に収公する
7. 墾田の収穫物から国衙へ田租を納めることには変わりがなかった
8. 墾田私有は、引き続き太政官と民部省の認定が必要だった

749年には寺院墾田許可令も発布された。「三世一身法」に続く「墾田永年私財法」の発令以降、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪(かつての豪族層)は活発に開墾を始め、大規模な土地私有が出現することとなった
そのような私領は「荘」と呼ばれた

ただし、過熱の弊害が生じたため、765年〜772年の間は零細な農民によるものを除き墾田私有を原則的に禁止した

これをきっかけに、各地に作られた荘園を「初期荘園」とよぶ
但し畿内に集中しており、必ずしも全国に満遍なく拡がっていた訳ではない


「初期荘園」とは
「初期荘園」は、墾田と開墾予定地に倉庫と管理事務所を兼ねた荘所が付属したものであり、その領域は、後の中世の荘園のように、「不入の権」の特権が認められものではなかった

この時代の荘園は専属の農民を持たなかったため、それぞれの荘園の周辺に居住する農民の出作により労働力を賄い、賃租として収められる収穫の2〜3割から収益を得ていた

荘所には農民に貸与する農具や種籾、人夫への労賃や対価として渡す食料が収められており、管理人は荘所で執務した

しかし荘園の直接管理は、人的・経済的な負担も大きく、また墾田の収穫の中から田租を納入する負担などにより、「初期荘園」は10世紀までに衰退した

10世紀に入ると戸籍・班田収授による租税制度がほぼ崩壊し、国単位の国司請負へと移行し始め、国司は租税納入を請け負う代わりに国の裁量権が強くなった

その中で、国司は、私領内の指定した墾田に対して田租の免除(不輸)を認め、不輸租田の扱いとした(免田と呼ぶ)
このような荘園を国免荘という
この免田の扱いはそれを承認した国司の在任中のみ有効とされた

さらに中央の有力者との関係が特に強い荘園では、田租に係る権限を有する太政官と民部省が発する符が国司へ通達され、国司が交代しても免田の認定が保持される特権を得た(初期は有力寺社の荘園の例が多かった)

このような荘園を官省符荘という

さらに元来、荘園の範囲は開墾予定地も含む範囲を意味していたものだったが、不輸権に加え国司の農地調査(「検田」)の対象外とする不入権をも得た荘園は全ての租税が免除された

1180年に発足した鎌倉幕府は、治承・寿永の乱の中、東国で荘園・公領の徴税事務や管理を司どっていた荘官などの職(警察権も含む)を御家人の中から任命し掌握した(地頭)
これにより乱を勝ち抜くことに繋がった
また御家人の在地領主としての地位は本来の荘園領主である本所ではなく、幕府によって保全されることとなった
当然ながら本所側は反発し、中央政府と幕府の調整の結果、地頭の設置は平家没官領と治承・寿永の乱の謀反人所領のみに限定された

しかし幕府は1185年の源義経謀叛を契機に、諸国の荘園・公領に地頭を任ずる権利を得ることとなった
源頼朝自身へも平家没官領の大半が与えられ大領主となった
後に北条家執権(得宗家)も諸国の荘園の大領主となった

1221年の承久の乱の結果、後鳥羽上皇を中心とする朝廷は幕府に敗れ、上皇方についた貴族・武士の所領はすべて没収された
これらの没収領は畿内・西国を中心に3000箇所にのぼり、御家人たちは恩賞として没収領の地頭に任命された(新補地頭)
これにより多数の東国武士が、畿内・西国へも移住し、幕府の勢力が広く全国に及ぶこととなった

この状態は鎌倉・室町時代になっても変わらなかった、室町・戦国の混乱時代、農業生産高は爆発的に増加したが、各地にモザイクのように存在する割拠勢力はそれぞれ消長を繰り返し、また支配下にも多くの自立領主がいるため、自領の実質総農業生産高を把握するのも困難であった

しかし、戦乱を経て地方に荘園や国衙領という枠を超えた一円に支配権を確立する戦国大名が成長する

1333年の鎌倉幕府滅亡から建武の新政、室町時代初期までの間は、全国的に戦乱が相次ぎ、荘園の所有関係も非常に流動化した
このため、鎌倉期以前の荘園では、住居がまばらに点在する散村が通常であったが、室町期に入ると、民衆が自己防衛のため村落単位で団結する傾向が強まり、武装する例もあった


「荘園」に対しての権威の介入
新たに発足した室町幕府は、戦乱を抑えることを目的として、在地武士を組織するため、国単位におかれる守護の権限を強化した。1346年、幕府は守護に対して、刈田狼藉の取締と使節遵行の権限を付与した

さらに1352年、守護が軍費調達の名目で荘園・公領からの年貢の半分を徴発する半済を、近江・美濃・尾張3国に限定して認めた
半済はあくまで限定的かつ臨時に認められていたが、次第に適用地域が拡がっていき、かつ定常的に行われるようになった

こうして守護には強大な権限が集中することとなった
守護が荘園領主から年貢徴収を請け負う守護請も活発に行われ始め、守護による荘園支配が強まった
守護は一国全体の領域的な支配を確立したのである

ちなみに室町時代の守護から脱却し、大名となった武家が「守護大名」として戦乱の世に躍り出る
(「甲斐武田家」、「駿府の今川家」等)

一方、荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していった
このような村落を惣村という
畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かった

東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともある
これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもあった

守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなった
彼らは、自分の支配地域における課税を行うための資料として土地の調査を行った
北条早雲によって初の検地が永正三年(1506年)に行われ、その後歴代当主がこれに続いた

しかし、その他ほとんどの戦国大名は全領地に検地を行うことができなかった
多くは新規に獲得した領地に対して行っている
それは家臣団や有力一族の抵抗が大きいからである
北条家などの一部大名が大規模な検地を行えたのは新興勢力であるがゆえに地縁に縛られにくかったという事情がある

急速に勢力を拡大した織田信長もその領国内でこの検地を行い、農業生産高とそれに基づく課税台帳の整備に力を入れた


「荘園」の終焉
信長死後その政権を引き継いだ豊臣秀吉は初めて全国的に検地(太閤検地)を実施した

「太閤検地」が画期的なのは土地の所有者ではなく、耕作者を調査し耕作者に課税したことである

これにより、土地に対して重層的にあった中世的な中間権利である様々な職が否定され、耕作者は直接領主に納税することとなり、農村にいた中間搾取者としての武士はほぼ一掃されることとなった

そして奈良時代より続いた「荘園制度」も全廃される事となった

余談ながら「太閤検地」では度量衡の統一という側面も強く、各地域毎に使用していた枡の統一・複雑な貨幣経済(貫高制)から穀物である「米」の収量を税収の基軸とした「石高制」に移行する事になる

これにより全国的に「石高制」が認知されるようになる
(しかしながら、この「太閤検地」も実際に豊臣氏の家臣が直接行ったものではなく、多くは大名の自己申告制であった)



なるほど〜🧐
(さっぱり意味分からん💦w)


要約しますとこんな感じですね

zakimiyaのざっくりまとめ(「荘園」)

荘園の特徴
律令制では土地は公のものとされていましたが、荘園は私有地でした
多くの荘園では、国家への税の減免が認められていました
10世紀以降には、租税の一部または全てが免除される「不輸の権(ふゆのけん)」
検田使など国の関係者の立ち入りを拒否する「不入の権(ふにゅうのけん)」などの特権が認められました
(つまり国家権力が通用しない土着した権力者が育まれる基盤が出来上がったわけです)


荘園の発生の背景
土地(農地)は元々国が管理して、それを貴族など有権者に貸し与えるスタンスでした

ところが奈良時代に入ると、人口が急激に増加したため朝廷は食糧確保のために田畑の開拓を奨励しました

ですが開拓した土地の所有権については引き続き国家が握っていたので、思う様に捗りません
(一生懸命荒地を耕して取られたら働く意味無いです)
743年に「墾田永年私財法」が制定され、自分で開墾した土地の永久私有が認められました

これを機に私領がどんどん増えていき、有力な国人衆が誕生していきました


荘園の衰退と消滅
鎌倉末期以降、度重なる武士による戦乱等の影響でその権利を侵害されて、最終的には「太閤検地」で消滅しました




ふう…😮‍💨

まだ大事な箇所が有るんですがあまりにも長いので、今日はこれで切り上げます😭


楽しく武将紹介するつもりが、初っ端から壁に
「はぶしっ⁉️」
という具合にぶち当たり、内容も凄く諄い(くどい)ものになりましたが、【zakimiya note】では毎度の事なので平にご容赦下さい🙏
(何ならこの諄い内容の続編が有るんよ…w)

今回自分で調べていても随分と未知なる領域だったので、大いに間違ってる箇所が有るかと思います😭
(そもそも奈良時代とか調べるのは、中学校での歴史の授業以来ですよ…)


冒頭でも述べましたがその際はコメント📝欄に
「それは違うよ」
と、その箇所について書き添えて頂けると、自分自身の見方や考えも改まりますし、多いに勉強になります📚♪


なるたけ早くマイナーな戦国武将を中心に少しづつ🆙していきたいと思います♪

今回もお付き合い頂き、ありがとうございます♪
次回もよろしくお付き合いの程、お願いします
╰(*´︶`*)╯♡

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