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「眠狂四郎無頼剣」の二大円月殺法は単なる話題作りではない?

シリーズ8作目「眠狂四郎無頼剣」は、市川雷蔵の眠狂四郎シリーズでは賛否両論だそうだ。それは、今作での狂四郎が狂四郎らしくないという感想が大きい。

今作は敵役の愛染あいぜんこそが主人公だったと言ってもいい。それは、愛染が狂四郎の剣法である「円月殺法」を使ったことにあると思う。

円月殺法とは狂四郎の必殺剣で、刀で円を描き、敵を催眠状態にする術だ。
愛染が今回、狂四郎と同じく円月殺法を使う。

「敵も円月殺法使うんだってよ〜!」みたいな話題ウケを狙ったのか。
それとも、ストーリーに深く関わっていたのか。

なぜ、愛染が円月殺法を使ったのか? について考えてみた。


今作の狂四郎と愛染

今作は、大塩平八郎の乱で生き残った大塩の教え子たちが江戸を火の海にするという形で復讐を企んでいるところから始まる。その筆頭が愛染である。

そんな中、愛染一派は狂四郎と出会い、驚きを隠せない。狂四郎の顔は、大塩平八郎の息子・格之助かくのすけにそっくりだというのだ。

奇妙な縁で結ばれた狂四郎と愛染。

愛染は狂四郎が橋の上で見せた円月殺法に惹かれ、自らも会得しようと一人鍛錬を行う。狂四郎も愛染の復讐を知り、食い止めようと動き出す。

今作は狂四郎が正統派のヒーローのような振る舞いで、原作者からもあまり評判は良くなかったそうだ。

ニヒリスト、という言葉がふさわしい狂四郎の人物像に当てはまらないという声もある。

ただ、個人的にはあまり違和感はなかった。というのも、市川雷蔵のシリーズに当てはめた限りでの感想だが、

狂四郎は意外と人助けのために奔走ほんそうすることがある。

「眠狂四郎勝負」では勘定奉行の朝比奈に肩入れし、生命を守るために立ち回っていた。

今回は多少アツかったし、台詞回しもいつもと違えど、狂四郎の行動倫理としては不思議に感じなかった。

これは自分が狂四郎への理解が浅いからなのかもしれない。
ただ、狂四郎は自分が気に入った人間に対しては意外と親身なところがあるように思える。

それが、今回は愛染一派に向いたのではないかと思っている。

その愛染だが、個人的にとても好きなキャラクターだ。

復讐のために心を鬼にし、復讐のターゲットの一つである弥彦屋やひこやの娘を人質に取って主人を脅しながらも、

その娘に対しては遊んであげたり手毬唄てまりうたを教えたり、お土産を買ってあげるという約束までしている。

江戸の街に火を放ったうえ、弥彦屋を生かしておくつもりは無かったのだから、その娘も当然その末路は知れている。

優しくする意味は本当は無いのだが、性根が子供好きなのか。

生かしておくつもりはなくても、子供の心を裏切るマネだけはしないと自分に課していたのか。

クライマックスの狂四郎との一対一の闘いでも、大事そうに弥彦屋の娘へのお土産をふところに抱えている。

加えて、狂四郎に斬られて息絶えるまでの間、愛染はそのお土産を弥彦屋の娘に渡してほしいと狂四郎に頼む。

最後の最後まで、約束を果たそうとしたのだ。

このことから、愛染が単なる復讐鬼ではないことが分かる。

本来は誠実な人物であり、正義感から復讐の道を選んでしまったものの、常に善悪の葛藤に苦しんでいたのだろう。

だからこそ、愛染は狂四郎の円月殺法に行き着いたのだと考える。

円月殺法

牧野 悠まきの ゆう氏が書かれた論文「円月殺法論」によると、円月殺法は刀で円月の動きを描き、自分と相手を「水と月」の関係に見立てる。

水は映そうと思って月を映さず、また月も映ろうと思って水面に映っていない。互いにありのまま、自然のまま相対するというあり方を水と月に例えている。

次第に相手は心を惑わされ、水面が波を打つように乱れ始める。

そうすると、その水面は乱れに乱れ、月を映すことができなくなる。つまり、相手の実体が見えなくなるのだ。

そして、水面が再び穏やかになり月が映ったときには、相手はすでに狂四郎によって斬られているというのが円月殺法だと書かれている。

ここで映画本編に戻って考えてみると、愛染は狂四郎の剣を会得すれば、自分の迷いを振り払ってくれると感じたのではないだろうか。

それを見た狂四郎も、自分の剣が邪剣だと知っているだけに、愛染がそこに堕ちることを望まなかったんじゃないかと思う。

狂四郎は江戸の民を救おうとしたのではなく、ただ一人、愛染を自分と同じような道に進ませまいとしたように感じられる。

そうなると、狂四郎は決して正義のヒーローではない。あくまで、自分の気に入った人間に肩入れしているだけ、という従来の狂四郎像からそれほど大きく外れないのではないか、と思っている。

勝敗の分かれ目

クライマックスは、火の手が上がる江戸の街の屋根の上。狂四郎と愛染が互いに円月に構えて、闘いが始まる。

もし、愛染が円月殺法を完全にモノにしていたら、決着はどうなっていたのだろうか。

円月殺法は心が乱れてはいけない。だが愛染は弥彦屋の娘との約束が最後まで振り切ることが出来ず、狂四郎に敗れてしまう。

約束の期限は江戸に火を放つ時刻だった。つまりお土産を渡そうと渡すまいと、少女の生命がどうなっているか分からない。守る義理も無い口約束だったのだろう。

それでも、ふところにちゃんとお土産を忍ばせ、最期に狂四郎に託すという「矛盾した行動」こそが愛染の魅力だったと思う。

作品を観終えて

単純に、狂四郎のほうが円月殺法の使い手として優れていたと片付けることは簡単だ。

が、愛染が優しさを捨てきれなかったから円月殺法は完全にならなかったと考えたほうが、愛染の魅力も、狂四郎の魅力もまた深まると思う。

狂四郎はあらゆるモノを捨ててしまったから生き残り、愛染は人間として大事なものを守ったから死んでしまった。

この対比はとてもキレイだと思う。映画のコピーである「あいつは俺の影なのだ」という文言にも当てはまる。

もちろんこれは勝手な解釈だし、狂四郎らしくないという声を否定する気はまったくない。あくまで、ぼくが思っている作品への感想でしかない。

まぁ、セリフも音楽も素敵だし、せっかくならストーリーも素敵な解釈をしてみようかな、と思わされた今作だった。

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