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【ゆるっと西洋史】(1)ヨーロッパ世界の形成

新しい企画、「ゆるっと歴史」シリーズ

現在私は藝大の大学院に在籍している。その関係で学部生と話す機会が割と多いのだが、音楽史の話をすると「西洋史がわからない」という声が意外にも多かった。
藝大だけでなく、ほとんどの音楽大学では音楽史の授業が必修であると思うが、西洋史を理解せずに西洋音楽史を理解するのは難しいと私は考えている。歴史の流れと、その音楽という文化が生まれた根拠がわからなければ、音楽史はただの暗記科目となり、非常に苦痛に感じるだろう。もちろん、東洋史と東洋・邦楽に関しても同じことが言える。

音楽をはじめとする文化は、人間の営みの中で生まれる。それは人間が言葉を用いる以前からなされていることであり、フランスのラスコーの洞窟画などが例に挙げられるだろう。音楽は狩りや軍楽から始まったとも言われる。このように実用性を踏まえて生まれたものが、人間の精神世界が豊かになるにつれて「芸術」として独立していったのかもしれない。モーツァルトのトルコ行進曲は誰もが知っている曲だが、あれはトルコ軍楽をイメージしたものである。彼が生きた時代、ウィーンはオスマン帝国の侵攻を受け(ウィーン包囲)、その過程で様々な文化交流が行われた。キリスト教世界から見たトルコ(オスマン帝国)のイェニチェリの軍楽は、外的世界への憧憬の対象になったのだろう。

例はたくさん挙げられるが、音楽にせよ美術にせよ文学にせよ、人間の文化活動は歴史と密接な関係にある。そのため、音楽史を始めとする文化史を歴史(政治史)の下地なしに学ぶことは厳しいものがあると私は考えている。このシリーズでは、以前塾で小中高生に社会・公民・日本史・世界史を教えていた私が、自分なりにわかりやすくまとめてゆるっと解説していきたいと思う。あくまで文化史の理解を助けるものとして書いているので、間違っても受験対策には使わないでほしい。最後に使用していた参考書のリンクを貼っておくので、必要な人はそれでしっかり勉強してください。よりコアな話や詳細版については、後日有料記事の方で公開したいと思う。

ヨーロッパ世界の形成

ゲルマン民族の大移動から諸王国の成立

なんで古代ギリシア・ローマからやらないの?と思われるかもしれないが、2000年以上の人類の歴史をまとめる作業は普通にしんどいので、とりあえず西洋音楽史と関係が深い時代からやらせてほしい。

古代ローマ帝国、『テルマエ・ロマエ』などで名前は聞いたことがあるだろう。4世紀にはヨーロッパからトルコ方面にかけて広大な領地を持ち、キリスト教を国教としてまとまりを持っていた(392年、テオドシウス帝により国教化)。しかし、4世紀末にテオドシウス帝が亡くなると、帝国は東西に分裂する。東ローマ帝国(ギリシャからトルコあたり)と西ローマ帝国(イタリアを中心としたヨーロッパ)である。大抵こういうお家騒動は残念な結果に終わることが多い。西ローマ帝国は、ゲルマン民族の大移動の混乱に乗じ、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって476年に滅ぼされてしまった。

ゲルマン民族の大移動について始める前に、当時の民族の分布について少し触れておきたい。
日本は島国なので民族の移動が少ない。それでもアイヌ人や琉球民族など本州とは異なる文化を持った民族が存在し、それらが混血を繰り返し統合されていったのが今の日本とも言える。ヨーロッパは地続きであるため、民族間の交流や移動がさらに容易である。人々は言語や信仰によって共同体を形成した。これが民族である。ちなみにキリスト教を信仰していたのはローマ人なので、ゲルマン人などは含まれない。

民族大移動のイメージ

ゲルマニア地方に住んでいるからゲルマン人、そこからさらにゴート人などに分かれていると思ってもらえたらいい。東方から移動民族のフン人が西進して東ゴート人を服従させたことにより、西ゴート人が保護を求めてローマ領内に侵入した。これをきっかけに色々な民族が約200年もの間定住先を求めて移動し続けるのである。この過程で、西ローマ帝国は滅亡してしまった。

この後、今のヨーロッパの国々の元となる諸王国が建国されていく。5世紀、フランク人は上の地図のガリア地域に小国を多数建国したが、これらをメロヴィング家のクローヴィス(在位481〜511)が統一し、フランク王国(メロヴィング朝)を建国した。この王国は9世紀まで存続し、西ヨーロッパ世界形成に大きく影響を与えた。
アングル人・サクソン人・ジュート人はイングランドに侵入し、先住民族のケルト人を征服した。小国家群を形成していたが、それは6世紀末ごろに七王国に統合された。

フランク王国の発展

フランク王国を建国したクローヴィスによる政策の一つが、アタナシウス派キリスト教への改宗(496)である。アタナシウス派が正統とされ、既にゲルマン人に定着していたアリウス派キリスト教はニケーア公会議で異端とされていた。正統派に改宗することで、大きな力を持つローマ・カトリック教会との関係を円滑にするほか、ローマ系住民にも受け入れられやすくなり、国家の支持基盤を固めることができたのである。
フランク王国には宮宰(宰相みたいなもの)がいたのだが、宮宰が政治の実権を掌握することもあった。それがカロリング家のピピン(中ピピン)であり、その孫小ピピンがカロリング朝を創始した。その過程で小ピピンは侵略で手に入れた領地を教皇に寄進し(ピピンの寄進)、教皇領が成立することになった。そうすることで、ローマ・カトリック教会との関係をより強固にしたのである。教皇領は範囲の変化はあったが、教皇領自体は1871年まで存続する。

小ピピンの死後、領地の相続を巡って王国が二つに分裂したものの、カール大帝(カール1世、シャルル=マーニュとも呼ばれる 在位768〜814)によって全フランク王国が統一支配された。カール大帝は積極的に対外遠征を行なって領土拡大を目指すとともに、イスラーム勢力を撃退するなど、キリスト教世界の拡大を目指した。これによりフランク王国は東ローマ帝国に並ぶほどの大国となり、これを評価したローマ・カトリック教会はカール大帝の西ローマ皇帝戴冠を計画した。そして800年、カール大帝は教皇レオ3世によって西ローマ帝国皇帝の戴冠を受けた。形式上西ローマ帝国が復活し、カール大帝はフランク王国を中心に西ヨーロッパ世界を統一する存在となったのだ。
カール大帝は中央集権化を進めて支配体制を強化していったが、同時に文教政策も重視した。キリスト教が国教であり教皇の加護を受けているからというのもあるが、聖職者養成のために各地に修道院・教会を建て、そこに附属学校も設置した。さらに聖職者たちの教養を高めるために各地から学者を招き、ラテン語や古典文化(古代ローマ・ギリシア文化など)を研究させ、カロリング=ルネサンスと呼ばれる文化の興隆が起こった。ちなみにこの頃教会で歌われているのがグレゴリオ聖歌である。

カール大帝の死後、王国は3つに分割してしまう。それが現在のフランス・ドイツ・イタリアの大元になっているのだが、ここから先は次回解説したい。

おすすめ参考書

最後に私が実際に使っていた教科書・参考書のリンクを貼っておく。日本史・世界史共に山川出版社の教科書が最強であることは頭に入れておいてほしい。

歴史の勉強をする時にもちろん教科書は必須なのだが、年譜や位置関係、芸術作品を視覚的に理解することで覚えやすくなると思う。ぜひ図録も読んでほしい。

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