ある種の呪い。
思春期の頃からずっと、私には人間関係に難がある。
良かれと思った言動が他人を傷つけ、不快な気持ちにさせることが少なくない。今では死語となるKY(空気が読めない)なこともしばしばある。三十路を越えてからもそれが変わらない。
お陰で人と深く言葉や心を通わせ付き合い続けていくことが困難だ。人を傷つけることに恐怖心を感じ、深く仲良くなることが不可能に近い。それができても、片手で数えるくらいのほんの僅かな友人しか存在しない。
ドイツの哲学者ハンナ・アーレント(以下女史と綴る)が提唱した「孤独」の定義がある。「自分が自分と一緒にいる状態」である。
女史は人間が一人である状態について、「孤独(solitude)」と「孤立(loneliness)」と「孤絶(isolation)」の3種類があると述べている。
「孤立」は、別の言い方をすれば「ひとりぼっち」といったイメージであり、その状況を苦にしてばかりいて、「自分自身ともうまくつながれない状態」のことである。「孤絶」とは、何かの作業に気を取られてしまっていて、他の人とのみならず、「自分自身ともつながっていない状態」のことだ。
しかし女史は、「孤独」についてはとても望ましい状態と捉えており、そこにネガティブニュアンスはまったくない。そして「孤独」とは「一人のうちで二人」になっている状態であるとも述べている。
それは「孤立」などとは違って、にぎやかで豊かな状態。人が何かに感動したり、新たな着想を得たり、丁寧に思索を深めたりするのも、全てこの「孤独」の状態の中で行なわれるとされている。
他人と深く仲を深めることができない私は、ひとり空想することが多い。震災から日常を取り戻した中でも、変わらず孤独や孤立心を感じる。
しかしハンナ・アーレントの「孤独」に少し救われる。そして何より、遠く離れた地でそれぞれ活動している作家たちの存在も、自身の活動や生活の糧にもなる。孤独を感じているのは私だけではないと、心強くなるのである。
気の利いたことも言えず、的外れな言動をし落ち込んだり嫌な気持ちになったりするが、少しずつ自分を許せるようになればとも考える。