「西成のチェ・ゲバラ」15-4 【詳報】革命家がもはやヤクザ
第十五話 帝国の灯火4
質屋の二階、診療所の待合室。消毒液の匂いが、今日は妙に鼻につく。
「基準に満たない食材は、受け入れられません」
支配人の声が、白壁に冷たく響く。背広の下から高級シャツの襟が覗く。机の上には分厚い仕様書が広げられ、蛍光ペンの線が何本も引かれている。
「この市場は、弊社のグローバルスタンダードを満たしていない。特に...」
「ふざけんな!」
魚屋の大将の声が診療所を揺らす。
「二十年、市場で商売してきた男を、なにが基準や」
ゲバラは黙ってシガリロを吸う。煙が、夕陽に赤く染まる。
「経験は理解します」支配人が慇懃な声を出す。「ですが、ISO9001の基準では...」
「思い出したよ」
ゲバラの声が静かに響く。「南米のある港町でも、似たような男がいた」
「ある商社の査定官でな」煙が立ち上る。「現地の漁師たちに、同じような基準表を突きつけていた。物をロクに見もせず、品質管理を名目にな。漁師たちから随分と怒りを買った」
支配人の喉が動く。
「彼は、どうなったと思う?」
待合室の空気が凍る。
ゲバラはゆっくりとシガリロを消す。火皿に残った灰が、まだ燻っている。
「安心しろ」意外な言葉に、支配人が顔を上げる。「殺されてはいない」
一瞬の安堵が支配人の表情を過ぎる。
「だが」ゲバラの声が低く響く。「誰からも信頼されず、孤独に生きた」シガリロの煙が立ち上る。「数字の奴隷には、それが相応しい報いだ」
支配人が言葉を探している時、ゲバラは仕様書に手を伸ばす。その仕草には、医師らしからぬ官僚的な正確さがある。
「この市場の価値を」ゲバラが指でページをなぞる。「お前の基準で測れるのか?」
「価値とは、具体的に...」
「見てみろ」ゲバラが窓から市場を指す。「八百屋の親父の目利き。魚屋の包丁さばき。果物屋の熟れ具合の判断」
「それは...」
「お前の基準表のどこに」ゲバラの声が冴える。「技の項目はある?経験の項目は?信頼の項目は?」
支配人が黙り込む。
「先生、あんた」大将が声を潜める。「ほんまにただの...」
「私はただの町医者だ」ゲバラが遮る。「だが、人の価値を数字で測ろうとする者の末路は、何度も見てきた」
支配人の背筋が、微かに震える。白衣の下に隠された、得体の知れない経験の重みを感じる。
「明日」ゲバラが立ち上がる。「夜明け前の市場を、その目で見てみろ」
「何を見れば...」
「分かるさ」ゲバラの声が、診療所に満ちる。「お前の言う基準が、この街の前でどれほど空虚か」
支配人は黙って立ち上がる。仕様書を手に取りかけて、躊躇う。そして、ゆっくりと机の上に置いた。
「では、具体的な品質管理について」支配人が新しい書類を広げる。一度は折れかけた声に、再び硬さが戻っていた。
「温度管理、保存方法、搬入から陳列までの所要時間」青いボールペンが、項目を叩く。「これらを数値化し、記録し...」
「記録?」八百屋の親方が声を上げる。「目と舌で分かることを、なんで...」
「感覚では駄目なんです」支配人の声が強くなる。「科学的な数字が...」
「思い出したよ」
ゲバラの声に、診療所が静まり返る。今度は、皆が息を潜める。
「ユナイテッドフルーツの査察官」シガリロの火が赤く点る。「センサーと記録表を持って、市場を歩いていた男だ。味を確かめもせず、数字でしか物事を判断できない男でな」
支配人の手が、微かに震える。
「彼は、どうなったと思う?」
誰もが、先ほどとは違う緊張を感じていた。
「安心しろ」ゲバラが煙を吐く。「生きてはいる」
支配人の表情が、かすかに緩む。
「臭い倉庫の隅でな」ゲバラの声が冷たい。「廃棄する食品の数を、一日中数えていた」シガリロの煙が、螺旋を描く。「人の感覚を信じられない男に、相応しい仕事だ」
「でも、データは...」支配人の声が弱まる。
「データか」ゲバラが仕様書を開く。「面白い数字があるな」
「え?」
「賞味期限切れの返品率」ゲバラの指が一点を指す。「うちの市場は、お前の基準の半分以下だ」
支配人が、数字を見つめる。
「なぜだと思う?」
「それは...」
「魚屋の棟梁」ゲバラが言う。「見てみろ。あの目の濁り具合を見分ける目を」
大将が、無意識に瞬きする。
「八百屋の親方」ゲバラが続ける。「野菜の味を、触っただけで分かる手の感覚を」
支配人は黙って、手元の温度記録表を見つめる。
「科学的な管理は大切だ」ゲバラの声が静かになる。「だが、それは人の感覚を支えるものであって、代わりになるものじゃない」
窓の外では、市場の声が響いている。
「商売は信用だ」魚屋の大将が立ち上がる。「数字じゃない」
支配人は黙って温度記録表を見つめる。その手が、ゆっくりとペンを置く。
窓の外で、誰かが氷を砕く音が響く。それは数字では表せない、市場の鼓動のように聞こえた。
「では最後に」支配人がまだ一枚の書類を取り出す。「ロビーの解放について」
さっきまでの柔和な表情が消え、再び高圧的な声音に戻っていた。
「お客様への配慮が必要です。特に...」
「今度は何や」八百屋の主人の声が強まる。「この街の人間は客やない、ちゅうことか」
「そういうわけでは」支配人が言葉を濁す。「昨日も、作業着のまま、路上で大声で...」
「思い出したよ」
三度目のゲバラの声に、診療所が水を打ったように静まり返る。
今度は、シガリロには火を付けない。
「カリブのある港町でな」その声は、いつになく重い。「似たような男がいた」
誰もが、息を呑む。
「アメリカ資本のリゾートホテルを建てると言ってな」ゲバラの目が、闇を見つめている。「地元の貧しい労働者たちを、海から締め出そうとした」
支配人は下を向く。
「彼は、どうなったと思う?」
待合室の空気が、重く沈む。
シガリロには、まだ火を付けていない。
「死んだよ」
予想外の言葉に、支配人が顔を上げる。
「貧民の声を聞かずに、強行しようとしてな」ゲバラの声が、冷たく響く。「結局、誰からも助けられないまま」
「...」
「分かるか?」ゲバラが立ち上がる。「何が彼を殺したのか」
支配人が黙り込む。
「街はな」ゲバラがようやくシガリロに火を付ける。「人の繋がりで生きている」煙が、まっすぐに立ち上る。「その繋がりを断つ者は、自分の命も断つことになる」
窓の外で、市場の片付けの音が響く。
「せめて」支配人が、小さな声で言う。「服装や衛生は...」
「お前の言い分も分かる」ゲバラが市場の人々の方を向く。「街の誇りというなら、それを示さねばならない」
「先生...」魚屋の大将が戸惑う。
「作業着を着替える。酔っ払って騒がない」ゲバラの声に力が込もる。「最低限のマナーは必要だ」
「そやな」八百屋の主人が頷く。「看板背負うとんねん、この市場の」
「うちらが仕切ったる」魚屋の大将も胸を叩く。「若い衆には、ちゃんと言い聞かせる」
「朝市の時間だけ」支配人の声が変わる。「試験的に...」
「それでいい」ゲバラが頷く。「始めるのは、そこからだ」
支配人は立ち上がる。今度は、最後の書類も机に置いていった。
「私たちも」彼が去り際に振り返る。「警備員には、市場のことをよく説明します」
その言葉に、かすかな希望が滲んでいた。
窓の外では、夕闇が街を包み始めていた。市場の片付けの音。ホテルの従業員の声。二つの世界が、少しずつ混ざり始めている。
「先生」まちが、小さな声で言う。「南米の話って...」
ゲバラは黙ってシガリロの火を見つめる。それは革命の記憶なのか、それとも...
「革命の形は変わる」静かな声が、診療所に満ちる。「時に銃弾よりも、一歩の譲歩の方が遠くまで届く」
市場の通りに、高層ホテルの明かりが映える。今夜は、その光が柔らかい。
「街を守るんじゃない」ゲバラが、最後の煙を吐き出す。「人を守るんだ」
まちは黙って、カルテを整理し始める。彼女には分かっていた。今日、この診療所で、小さな革命が起きたことが。
窓の外で、誰かのギターの音が流れ始めていた。古い革命歌が、この街の子守唄のように響く。