見出し画像

小説「西成のチェ・ゲバラ」3 知らない間に、自分の顔がTシャツになっていた件

序章はこちら

第三話 革命の肖像


ペケペケに修理してもらったカメラを手に、ゲバラは釜ヶ崎の夕暮れを歩いていた。

レンズを通して見える風景。路上で眠る男性。段ボールの家を作る老人。システムの周縁に追いやられた人々の姿は、どこか見覚えがある。

その時、若者たちの群れとすれ違った。
「このTシャツ、めっちゃウケるわ」
「今TikTokで流行ってん。なんか革命家らしいで」

ゲバラの足が止まる。
若者の胸には、見覚えのある顔が印刷されていた。ベレー帽に髭—。

「まさか...」

自分の顔のように見えた。しかし、ポップアートのように加工され、まるで商標のように印刷されている。

「私...?」
混乱する。1967年、ボリビアで倒れた時、確かにある程度の知名度はあった。しかし、まさか半世紀以上経った今、若者たちがTシャツに...。

「なぜ…」
目の前の光景が、にわかに現実感を失う。

「先生!」
まちの声が、混乱する思考を遮った。
「大変です! 古着屋のユウさんが...」

「先生、こっちです!」

まちに導かれるまま歩きながらも、ゲバラの頭から先ほどの光景が離れない。
自分の顔がTシャツに—しかも若者たちは、まるでファッションの一部のように着ている。

路地を曲がると、古着屋「UPRISING」の看板が見えてきた。
店の前には数人が心配そうに立っている。

「ユウさん、大丈夫?」
誰かが声を上げる。

場所を空けてもらい、ゲバラが中に入る。
店主らしき若い男性が倒れている。その胸には、やはり例の顔がプリントされたTシャツ。

診察に集中しようと意識を切り替える。脈を確認し、瞳孔を見る。意識はある。

「ユウさん、どこが?」
まちが声をかける。

「い、胃が...」
店主のユウが苦しそうに答える。
「昨日から何も...」

「食べてないんですね」
ゲバラは胃の辺りを軽く押さえてみる。

「最近ずっと在庫整理で...」
ユウが言いかける。
「この手のTシャツ、もう流行らへんかと思ってたのに、なんかTikTokで...」

「このTシャツの人物は?」
ゲバラは、無意識のうちに尋ねていた。

「ああ、チェ・ゲバラっていう革命家...」
ユウが説明しかけ、ふと診察してくれている医師の顔をじっと見る。
「あれ...なんか...」

そこで言葉が途切れた。何か言いかけたような、しかし確信が持てないような表情。

「なんか...先生、似てますね」
ユウが弱々しく笑う。
「髭とか、目つきとか」

「そうかな」
ゲバラは、さり気なく話題を変えた。
「今は点滴が必要だな」

医療器具を取り出しながら、まちに指示を出す。
「経口補水液を。ゆっくりと」

まちが表に飛び出していき、すぐに戻ってきた。
点滴を打ちながら、ゲバラは店内を見回す。色褪せたデニムジャケット、古いバンドTシャツ。そして片隅の箱には、例の顔がプリントされたTシャツが何枚か。

しばらくして、ユウの顔色が少し良くなってきた。

「すみません...」
点滴を受けながら、ユウが少し落ち着いた様子で話し始めた。
「実は、このTシャツ、元々は俺が好きで仕入れてたんです」

「好きで?」
ゲバラは思わず聞き返した。

「ガキの頃に、親父の本棚で見つけた本があって」
ユウは遠くを見るような目をする。
「貧しい人たちのために、自分の医者の道を捨てた人がいるって。その...なんていうか、かっこ良くて」

ゲバラは黙って点滴の滴下を確認している。

「今じゃほとんどの人は、ただのファッションだと思ってるけど」
ユウは箱の中のTシャツを見つめた。
「でも俺は、このTシャツ着てると、なんか...諦めちゃいけない気がするんです」

外では夕暮れが深まっていく。
市場からの喧噪が、次第に静かになっていく音が聞こえる。

「でも、このチェ・ゲバラって人...」
点滴を外しながら、まちが首を傾げた。
「なんか授業で習った気がする。キューバの独裁者の側近で、悪い人なんでしょ?」

部屋の空気が、一瞬で凍りついた。

「違う!」
ゲバラの声が、思いがけず強く響く。
「私たちは人々のために...貧しい人々の...」

言葉が途切れる。
部屋の中が静まりかえる。

まちが目を見開いている。
ユウも、ぽかんと口を開けたまま。

「...先生?」
まちが、おそるおそる声をかける。
「そういえば...先生のお名前って...」

ゲバラは深いため息をつく。
医療器具を片付ける手が、わずかに震えている。

「私は...ただの医者だ」
低い声で言う。
「ただの、医者なんだ」

外は、すっかり日が暮れていた。


夜更け、質屋の二階の六号室。
ゲバラは窓辺に座り、街灯が照らす路地裏を見つめていた。

今日見た自分の顔。若き日の、あの瞬間を切り取った写真。あの時、カメラマンは何を見ていたのだろう。そして、なぜそれが半世紀を超えて、こんな形で...。

机の上には、ユウの古着屋で無意識に手に取っていた古い新聞の切り抜きが広げられている。「キューバ」「社会主義」という文字が、ところどころ目に入る。だが、それ以上は、まだ読む勇気が出ない。

「気になるか?」
ペケペケが、修理したばかりの古いスマホを持って現れた。

「ああ」
ゲバラは静かに答えた。
「キューバが...どうなったのか。私たちが目指したものが、本当に—」

言葉が途切れる。
革命は人々に何をもたらしたのか。そして、自分の選択は...。

「調べてみるか?」ペケペケがスマホを開こうとする。

「いや」
ゲバラは首を振った。
「まだ...知る勇気がない」

路地裏で誰かが咳き込む音が聞こえる。かすかな話し声。笑い声。人々は、今を生きている。

「あんたが誰かは知らん」
ペケペケは、スマホを置きながら言った。
「でも、一つだけ言える。革命ってのは、壊すことより、直すことの方が難しい」

その言葉が、胸に沁みる。
かつて自分たちは、古い世界を壊すことに必死だった。
しかし、その後に何を築けたのか。

窓の外では、朝もやが立ち始めていた。
明日も、この街には、医者を必要とする人々がいる。

今はそれだけを、考えることにしよう。

(第三章・終)


いいなと思ったら応援しよう!