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1分小説 「存在の裂け目」
目覚ましのメロディで目を覚ました瞬間、スマートフォンの画面が青白く明滅し、そして永遠の闇に沈んだ。
「まさか...」
必死に電源ボタンを押し続けるが、反応はない。やむを得ずパソコンを起動すると、青い画面に踊る進捗バー。「お待ちください...システムアップデート中(0%)」
時計を持たない私は、時間という概念を失った。慌ててコンビニへ向かう。自動ドアが開く音だけが、いつもと変わらない朝を主張していた。
「すみません、今何時か分かりますか?」
店員が困惑した表情を浮かべる。「申し訳ありません、レジがシステムエラーで...」
スマートフォンが使えないから、電子マネーも使えない。そんなことを考えたこともなかった。
千円札を取り出しタバコを買う。ライターの存在が不思議なほど愛おしく感じられた。小さな炎を灯す道具。それは今も確かに火を点す。
車のエンジンはただの金属の塊と化していた。仕方なく駅へ向かう。
ホームの電光掲示板には「7:45」の文字。
異様な安心感は、遅刻を避けられたからではないはずだ。
切符売り場で、硬い紙切符の感触に戸惑う。指先が記憶を取り戻そうとしているようだ。
久しぶりの電車通勤で、どの路線に乗ればいいのか分からない。スマホがないのだ。乗り換え案内すら見れない。
路線図を見上げる。毎日見ていたはずなのに、まるで古代文明の地図を読み解くような気分だ。色とりどりの線が織りなす模様の中に、都市の鼓動を感じる。
電車は動き出した。が、トンネルの中で突然、深いため息をつくように停止した。車内灯が消え、窓の外は闇。
「ご迷惑をおかけいたします。車両トラブルにより、隣駅まで徒歩での移動をお願いいたします。」
車掌の声に導かれ、線路に降り立った私たちは、長い列を作って歩き始めた。皆、同じ方向を見つめている。
まっすぐに伸びる線路と、トンネルの先の一点の光。通勤ラッシュの見知らぬ人々が、黙って一緒に歩いている。
その時、私は気づいた。技術の失敗が露わにしたもの―それは存在の真実だった。私たちはいつも「共に在る」。ただ、それを忘れていただけだ。SNSの見知らぬ知人ではなく、今、隣を歩く人の横顔に、確かな現実を見る。
線路は無言で私たちを導く。トンネルを抜けると、朝日が眩しかった。それは画面の光ではなく、確かな光だった。
私たちはその光の中を、ゆっくりと歩いていく。