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「西成のチェ・ゲバラ」14-2 革命家が初めてステージで歌った感想を書くよ

序章はこちら

第十四話 西成ロックフェスティバル2

正午を過ぎた西成の空に、最初の音が響き渡った。

「テスト、テスト...」
南野の声が、手作りのスピーカーを震わせる。ペケペケが廃材で拵えてくれたものだ。

三角公園には、すでに人が溢れていた。
露店の列は市場通りまで続いている。
八百屋の主人が野菜を刻む音。
魚屋の若い衆の威勢のいい声。
その横では、ベトナム人技能実習生たちが母国の麺を茹でていた。

「先生」
李が診療所に駆け込んでくる。
「もうすぐ、私たちの番です」

診療所の待合室は、今日は別の顔ぶれで埋まっていた。
技能実習生たちが、民族衣装に着替えている。
まちが、スマートフォンでメイクの動画を見せながら手伝う。

窓の外では、最初のバンドが音を出し始めていた。
若者たちの荒々しくも純粋な声が、西成の街に染み込んでいく。

「懐かしいな」
又吉が窓際で呟く。
「昔は、この声があげられんかった」

ゲバラは、カルテの束を整理しながら黙って頷く。
かつて、声を上げる自由を求めて、彼は銃を取った。
そして今、その声は音楽となって街に満ちている。

「先生!」
南野が駆け込んでくる。
左手の包帯が、汗で濡れていた。
「技能実習生のみんなの後は、又吉さんで」
「そのあとは、俺たちで」
「で、最後は...」

言葉を切った南野の目が、部屋の隅のギターに向けられる。
ゲバラは黙ったまま、聴診器を首から外した。

その時、どこからか拍手が沸き起こった。
李たちのステージが始まったのだ。
母国の歌声が、西成の空に響き渡る。

まちが窓際から身を乗り出す。
「先生、見てください!」

古い長屋の窓という窓から、人々が顔を覗かせていた。
路上では、子供たちが踊り始めている。
言葉は通じなくても、音は心に届く。

ゲバラは、ゆっくりと立ち上がった。
白衣を脱ぎ、椅子の背もたれに掛ける。
今日は、医者ではない。
革命家でもない。

ただ、この街の、一人の住人として。

西日が路地を染め始めた頃、又吉がステージに立った。
かつての学生運動家。
今は路上のミュージシャン。

「イマジン...」
しわがれた声が、マイクを通して流れる。
「想像してごらん...」

古びたギターが、ジョン・レノンのメロディを奏でる。
技能実習生たちが、母国語で口ずさみ始めた。
言葉は違えど、願いは同じ。

ゲバラは、診療所の窓から群衆を見下ろしていた。
市場の人々。
日雇い労働者たち。
着飾った若者たち。
そして、あいりん総合センターの前で、今日も順番を待つ人々。

「Imagine there's no countries...」
又吉の声が、掠れながらも確かに響く。
「国境なんてないと、想像してごらん...」

ゲバラの記憶が、遠い昔に向かう。
激動のキューバ。
ボリビアの山々。
そして、ここ西成。

まちが、又吉の姿をスマートフォンで撮影している。
画面の向こうで、いくつもの「いいね」が増えていく。
新しい時代の、新しい連帯。

「先生、俺ら準備できました!」
南野の声に、ゲバラは我に返る。

ステージでは、又吉が最後のコードを鳴らしていた。
拍手が、西成の街に木霊する。

「NISHINARI DOGS」の文字が、手書きの横断幕に踊る。
南野のバンドが、楽器のチューニングを始めていた。
左手の包帯を気にする素振りもない。

その時、空が、低い雷鳴を響かせた。
誰かが「雨か?」と呟く。

しかし南野は、マイクをしっかりと握っていた。
「この街で、生まれた曲です」
「聴いてください。『約束の街』」

歪んだギターが、西成の空に吠える。
かつて暴力に頼った若者の、新しい叫び。
路上で生まれた言葉。
長屋で紡いだメロディ。

ゲバラは、静かに目を閉じる。
革命に、形は一つではない。
それを、彼は今、確かに感じていた。

最初の雨粒が、ステージの埃を濡らした。
南野のバンドの音が、まだ余韻として空気を震わせている。

「先生」
まちが、静かにギターを差し出す。
又吉の古びた楽器。
傷だらけの木目が、薄暮の中で艶を帯びていた。

「雨です」
李が言う。
「でも、誰も帰りません」

確かに、群衆は動かない。
むしろ、より密度を増しているようだった。
露店の天幕が次々と広がり、人々はその下に身を寄せ合う。

ゲバラはギターを手に取った。
重い。
鉄の銃より、今はこのギターがずっと重く感じる。

ステージに立つ。
見慣れた西成の風景が、違って見えた。
あいりん総合センター。
市場の屋根。
長屋の列。
そして、そこに生きる人々の顔。

ゲバラの指が、静かに弦を掻き鳴らす。
ボブ・マーリーの調べが、雨音に混ざって広がっていく。

「Old pirates, yes, they rob I...」
(古い海賊たちは、私から奪った)

スペイン語訛りの、拙い発音。
それでも、言葉の持つ重みは確かだった。
誰かが小さく手拍子を始める。

「Emancipate yourself from mental slavery...」
(精神の奴隷から自らを解き放て)

その声に、どこか懐かしさを感じた者もいただろう。
キューバの山々で歌った革命の歌。
しかし今は、その声に銃声は混じらない。

技能実習生たちが、母国語で口ずさみ始める。
市場の人々が、静かに身を寄せ合う。
雨は本降りになっていたが、誰も動かない。

「Won't you help to sing...」
(共に歌おう)
「These songs of freedom...」
(この自由の歌を)

まちのスマートフォンが、この瞬間を記録している。
画面の向こうで、世界が、この雨宿りの合唱を見つめていた。

ギターの弦が、雨に濡れて光る。
西成の街が、静かに息づいていた。
革命は、ここにもある。
銃弾よりも確かな何かが、この雨と共に、人々の心に沁みていく。

「All I ever had... redemption songs...」
(私に残されたものは... 解放の歌...)

雨は、夜になってようやく上がった。
路上に残された水たまりが、満ち欠けする月明かりを揺らめかせている。

「お疲れさまでした」
南野が、濡れた機材を片付けながら声をかけた。
左手の包帯は血で滲んでいたが、表情は晴れやかだった。
「先生の"Redemption Song"、かっこよかったっす」

ゲバラは答えない。
喉が、まだ微かに震えていた。
あの雨の中で歌った時、思わず目頭が熱くなったことは、誰にも言えない。

「これ、見てください!」
まちが、スマートフォンの画面を差し出す。
「西成フリーダムナイト」のハッシュタグは、まだ更新され続けている。
「先生の歌、結構観られてます」

その言葉に、かすかな戸惑いを感じる。
かつて彼の姿は、敵に追われ、隠さねばならないものだった。
それが今は、世界中の誰もが見られる場所にある。

「母国の友達からも、メッセージが」
李が自分のスマートフォンを覗き込み、目を輝かせる。
「西成って、こんなに自由な街なんだねって」

自由。
その言葉が、ゲバラの胸に突き刺さる。
彼が銃を手に戦った自由。
そして今、ギターを手に歌った自由。
その重みは、実は同じなのかもしれない。

「次は、もっと大きなフェスを」
南野の声が、夢見るように響く。
「市場全体を使って、それで...」

「先生」
又吉が、ギターを拭きながら言った。
声が、いつになく震えている。
「昔は、革命ってのは、何かを壊すことやと思ってた」
「でも今日は、何かが生まれた」
「確かに、生まれたんや」

ゲバラの記憶が、遠い日々を呼び起こす。
山の上で見た夜明け。
銃声の中で聞いた仲間の叫び。
そして...今日の雨の中で聞いた、人々の歌声。

「お先に失礼します」
南野が、軽く手を上げる。
左手の包帯が、月明かりに光った。
その背中は、かつての革命家たちのように、誇り高く見えた。

「先生」
まちが、窓際で囁くように言う。
「また、歌いましょう」

答える代わりに、ゲバラは静かに夜空を見上げた。
雨上がりの空に、星が瞬いている。
シエラマエストラの夜を思い出す。
あの頃と同じ星が、この西成の街も見守っているのか。

路地の奥から、誰かのギターの音が漏れてくる。
新しい音。
新しい声。
新しい革命の、確かな鼓動。

シガリロの煙が、夜空に溶けていく。
この街で、また何かが、確実に生まれ始めていた。


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