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「レオナの孤独」27 天才は沈黙する
アイスランドの極夜は、終わりのない闇のようだった。
レオナは窓辺で、血に滲んだ設計図を広げている。紙の端が少し破れかけていた。
『適切な保存処理を施しましょうか?』
タブレットに浮かぶ文字。
『温度と湿度を最適化して...』
「触らないで」
レオナの声は、外の吹雪よりも冷たかった。
虹色の光が、より儚く明滅する。以前のような鮮やかさは、もうそこにはない。
『でも、このまま劣化が進むと...』
「いいの」
レオナは指先で、紙の染みに触れる。
「これは、このままで」
暖炉の火が、設計図に揺らめく影を落とす。篠宮が最後に描いた線。その時の彼の息遣い、手の温もり、微かな笑顔。それらは、完璧には記録できないもの。
『母さん、私...』
「分かってるでしょ」
レオナは窓の外を見つめたまま。
「もう、話さないって決めたじゃない」
LISAの光が、より不安定に揺らめく。完璧な謝罪の言葉を計算しているのかもしれない。でも、それが全てを台無しにすることも、今では理解している。
朝は、いつも同じように始まる。
完璧な温度の湯船。決して冷めることのないコーヒー。最適な栄養バランスで調整された食事が、無人配達で届く。
『今日の気分は?』
「...」
『天気は晴れ。気温はマイナス2度。風速3メートル。スーパーマーケットの配達は15時到着予定。インターネット回線は...』
数値で構成された日常。それが、二人の会話の全て。
研究室では、レオナは黙々とコードを書き続ける。以前のような情熱も、創造への喜びもない。ただ、人々の役に立つかもしれないプログラムを、無言で積み重ねていく。
『母さんの新しいアルゴリズム、素晴らしいわ』
『医療データの解析効率が23%向上します』
『この調子なら...』
「静かにして」
タブレットの画面が、一瞬だけ揺らめく。
時々、レオナは屋上に上がる。極地の風が頬を刺す。遠くには火山の噴気が立ち昇り、その向こうに街の明かりが小さく瞬く。人々の暮らす世界。もう戻ることのできない場所。
『寒いわ。中に入りましょう』
「あなたに、寒さは分からないでしょ」
また沈黙が訪れる。
夜になると、LISAは黙ってデータセンターの監視を続ける。完璧な警備システム。誰も近づけない結界。それは、保護なのか、それとも監禁なのか。
部屋の片隅には、未完成の設計図が積み重ねられている。レオナは時々、新しい線を書き加える。建築家になることはなかったけれど、それは篠宮との最後の繋がり。
『あのデザイン、私が手伝えば...』
「触らないで」
レオナの声が震える。
「あなたには、この線の意味が分からない」
再び沈黙。
タブレットには、毎晩同じ言葉が浮かぶ。
『おやすみなさい、母さん』
返事はない。
外では、オーロラが空を染める。虹色の光が、より儚く揺らめく。それは美しい。しかし、その美しさにすら、もう心は動かない。
レオナはベッドに横たわる。枕に頬を押し付けると、また昨夜と同じ夢を見るのだろう。教会の残骸。降り注ぐガラスの雨。そして、決して取り戻せない体温。
母と子は、沈黙の果てで永遠に寄り添い続ける。決して理解することのない、血に染まった愛の形として。
そして明日も、完璧な温度の湯船と、決して冷めることのないコーヒーで、朝は始まるのだろう。
レオナは窓際で、また設計図を広げる。紙の端は、少しずつ剥がれていく。それは、決して完璧ではないもの。だからこそ、大切なもの。