見出し画像

「西成のチェ・ゲバラ」22 酔っ払った革命家の渾身のギャグ

第二十二話 酒と革命家

カウンター席だけの店。
古い木の匂いが、煙と混ざっている。
壁には、いつの時代からあるのか分からない暦が貼られている。

マスターは無言で、見慣れない茶器に湯を注ぐ。
マテ茶の香りが、かすかに立ち上る。

市場帰りの魚屋の若い衆が二人。
今日の競りの話で盛り上がっている。
隅では、タバコ屋の親父が一人で酒を呷っている。
建設現場の作業員らしい男たちが、隣で賑わっていた。

「先生」
タバコ屋の親父が、取り置きのシガリロを差し出す。
「入荷したとこや」

黙って受け取る。
新しい葉の香りが、鼻をくすぐる。

ゲバラはシガリロに火を点けた。
煙が、ゆっくりと立ち昇る。

店の外を、誰かの足音が通り過ぎる。
三角公園の方から、又吉のギターの音が漂ってくる。

「ほんま、先生は酒飲まへんのやなぁ」
作業員の一人が、大きな声を出す。
赤ら顔で、既に陽気な気分になっている。
「もったいない!この酒が!」

後輩らしい男が慌てて制する。
「すんません、師匠が調子に乗ると...」

「なんやそれ」
赤ら顔の男が、ゲバラの前の茶器を指差す。
「お茶か?」

「マテ茶や」
マスターが、珍しく口を開く。

それ以上は言わない。
説明するのは、このマスターらしくない。
だが、その声には、どこか誇らしげな響きがあった。

「南米の茶らしいで」
タバコ屋の親父が、グラスを傾けながら言う。
「うち、シガリロ取り寄せる時、ちょっと調べたんや」

新しい客が入ってきた。
市場の八百屋の主人だ。
「よっ」
カウンターに座り、ビールを頼む。

「おう、社長」
魚屋の若い衆が声をかける。
「東帝の工場、ほんまに撤退するんやて?」

「ああ」
八百屋が頷く。
「あの事故以来やな。ようやく決まったらしい」

「ええ度胸しとるわ」
タバコ屋の親父が、煙を吐き出す。
「あの騒動の後で、ようまた営業続けられたもんや」

「まぁ、撤退言うても」
魚屋の若い衆が口を挟む。
「デベロッパーに売るんやろ?」

「ほら、来たで」
八百屋が、グラスを置く。
「工場がなくなったら次は高層マンションか、ホテルやろ」

「この街も変わってまうんかな」
若い作業員が、酔いに任せて言う。

「変わるんは、ええことや」
師匠格の赤ら顔が、大きな声を出す。
「仕事も増えるし、街もキレイになる」

誰も、すぐには返事をしない。
又吉のギターの音が、風に乗って流れてくる。

「キレイになる、か」
タバコ屋の親父が、ぽつりと呟く。
「ワシらみたいな汚いもんは、どっか行けちゅうことやな」

「そういう話やないやろ」
赤ら顔が慌てる。
「ただ、その...」

マスターが無言でマテ茶を足す。
湯気が立ち、消えていく。

「先生は、どない思います?」
若い作業員が、ゲバラに声をかける。

シガリロの煙が、ゆっくりと立ち昇る。
返事の代わりに、ゲバラは窓の外を見ていた。
路地の向こうで、誰かが段ボールを敷いている。
誰かが咳をする。
誰かが缶を蹴る音。

「キレイになったら、ええんかな」
八百屋が、ビールの泡を見つめながら言う。
「この街は、汚いから、ええねん」

「どないやねん」
若い作業員が笑う。
「汚い方がええて」

「そうやないねん」
八百屋は真面目な顔になる。
「ここには、隙間がある」
「人の。生活の。心の」
「その隙間に、みんなが入り込んで...」

言葉が続かず、代わりにビールを飲む。

「分かるで」
魚屋の若い衆が頷く。
「うちの店だって、市場だって」
「キレイになったら、やっていけへんのとちゃう」

「そんなもんか」
赤ら顔の作業員が、急に声を落とす。
「ワシら、建設の仕事なくなるで」

「なんでや」
後輩が訝しげな顔をする。
「再開発なら、仕事増えるんちゃう?」

「アホ」
赤ら顔が苦笑する。
「うちみたいな零細は、関係あらへん」
「ゼネコンが入って、下請けは決まってる」
「この街の工務店なんか、相手にされへんて」

「ほな、タワマン建つまでの解体工事とかは?」

「そら、ピンはねされて、ピンはねされて」
赤ら顔がグラスを傾ける。
「最後うちらに来る頃には、割に合わんわ」

外で誰かが叫ぶ。
酔っ払いの声か、喧嘩の声か。
それとも誰かの悲鳴か。
街は、いつもそんな声を飲み込んでいく。

「先生は、どや思います?」
若い作業員が、もう一度声をかける。
「この街、変わってまうんか?」

ゲバラは、マテ茶に口をつけた。
いつもの沈黙が、店内を満たす。
だが、今夜は違った。

「街は」
低い声が、ゆっくりと零れ落ちる。
「人だ」

シガリロの煙が立ち昇る。
珍しく、その口元に微かな笑みが浮かんでいる。

「昨日な」
普段より、声に温みがある。
「診療所に、面白い男が来た」
「高層ビルを建てる、と豪語する男だ。」
「だが、階段を上がっただけで」
「息が切れていた」

タバコ屋の親父が、思わず吹き出す。
魚屋の若い衆も、肩を揺らす。

「この街は」
ゲバラは、また一服する。
「そうやって、人を、本当の姿にする」

マスターが、黙ってマテ茶を足す。
夜の底で、又吉のギターが鳴り続けていた。

「本当の姿か...」
タバコ屋の親父が、グラスを揺らす。
「そやな」

「わいも昔は」
八百屋が、ビールの泡を見つめる。
「なんとかして店、大きくしたいと思とってん」
「でかい店構えて、バイトも雇うて」
「今みたいな、軒先だけの商売やのうて」

「ほな、なんでせーへんかったんや」
若い作業員が訊く。

「金も、才覚もあったで」
八百屋は缶を開ける。
「でもな」
「市場で見かける、あのばあちゃんな」
「毎日、大根一本買いに来てくれる」
「そんな客、スーパーには来ぉへん」

誰かが頷く。
誰かが咳をする。

「まぁ、言い訳かもしれんけどな」
照れ臭そうに笑う。
「ワシも本当の姿に、されてもうたんやろか」

ゲバラは黙って聞いていた。
だが、その目は、どこか楽しげだった。

「先生も、ようここで診療所始めましたな」
魚屋の若い衆が言う。
「大きい病院とか、ええとこ行けたんとちゃいます?」

ゲバラは、ゆっくりとシガリロを揉み消した。

「大きな病院には」
声が低く響く。
「おまえたちは似合わない」

一瞬の静寂。
そして、店内に笑いが広がった。

「なんやそれ!」
「ほんま失礼な先生やな!」
誰もが、肩を叩き合って笑っている。

賑やかな笑い声の中、扉が開く。
まちが、息を切らせて立っていた。

「先生、急患が...」
そこで声が止まる。
店内の雰囲気に、目を丸くする。
「あれ、もしかして酔っ払ってます?」

「先生は飲んでへんで」
タバコ屋の親父が答える。
「いつも通りや」

ゲバラは静かに立ち上がる。
ポケットから、聴診器が覗いていた。

「すまない」
マスターに金を払い、歩き出す。
その姿勢は、いつもと変わらない。

扉が閉まる。
又吉のギターが、風に乗って流れてくる。

「なぁ」
タバコ屋の親父が、ふと呟く。
「こういうことがあるから」
「先生は、酒を飲まへんのかもしれんな」

誰も答えない。
ただ、皆が黙って頷いていた。
夜は、まだ長かった。


いいなと思ったら応援しよう!