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「西成のチェ・ゲバラ」 10話 革命家がうっかり暴動に参加してみた話
第十話 暴動と希望
三角公園の隅で、誰かが中国語で歌を歌っていた。
懐かしい民謡のような旋律が、夕暮れの空気に溶けていく。
診療所の窓から、ゲバラはその声に耳を傾けていた。
「先生」
まちが声をかける。
「次の患者さん、中国から来た方みたいです」
若い男性が、診察室に入ってきた。
左手に包帯を巻いている。
工場でのケガだろう。
「你好(ニーハオ)」
ゲバラが声をかけると、男性の目が少し輝いた。
しかし、それ以上の中国語は出てこない。
「李...です」
男性は、おずおずと名乗った。
「みぎて、いたい」
「右手は大丈夫?」
ゲバラがジェスチャーを交えて尋ねる。
李は首を振る。
包帯を解くと、古い傷跡が見える。
縫合の跡。
きちんとした治療を受けられなかったのだろう。
「これは...」
まちが、心配そうに覗き込む。
その時、窓の外で、また歌声が聞こえた。
李の表情が、少し和らぐ。
「友達?」
ゲバラが尋ねる。
李は頷く。
「故郷の歌...です」
ゲバラは静かに包帯を巻き直しながら、その歌に耳を傾けた。
言葉は分からなくても、どこか懐かしい響きがある。
山々を、空を、家族を想う歌。
「先生も」
李が、診療所の隅のギターを指差す。
「歌、する?」
「ああ」
ゲバラは微笑む。
「下手だがね」
「聞きたい」
李の目が輝く。
「みんなで」
窓の外では、又吉のギターに合わせて、誰かが歌っていた。
中国語と日本語が、不思議な和音を奏でている。
診療所に、夕陽が差し込んでくる。
まちは、カルテに何かを書き留めながら、その光景を見つめていた。
*
その週末、診療所の前の路地が賑やかになっていた。
李の仲間たちが、三々五々と集まってきている。
誰かがギターを抱え、誰かが小さな太鼓を持っていた。
「ええもんやな」
又吉が、路地の隅でギターの調子を整えながら言う。
「音楽に国境はない、ちゅうやつや」
ゲバラは、診療所の窓から静かにその光景を見つめていた。
シエラ・マエストラの山中でも、兵士たちは歌を歌った。
故郷を想い、家族を想い...
「先生!」
李が手招きする。
「一緒!」
その時、診療所の電話が鳴った。
受話器から聞こえたのは、聞き覚えのある嫌な声だった。
「李くんの労災申請の件で...」
電話の向こうの声が、次第に高圧的になる。
「あなたたちには関係のないことです」
「余計な真似は、謹んでいただきたい」
その時、路地から歌声が響いてきた。
李たちの歌に、又吉のギターが重なる。
ゲバラには、まるで抗議の歌のようにも聞こえた。
「先生」
まちが心配そうに声をかける。
「工場の人たち、また...結局前と同じ…」
ゲバラは黙って頷く。
診療所の棚から、医療記録を取り出す。
技能実習生たちの傷の記録。
それは、目を背けてはいけない現実の証だった。
路地では、歌の輪が広がっていた。
市場帰りの人々も、足を止めて聴き入っている。
誰かが缶ビールを回し始めた。
「ここは」
ゲバラは静かに言った。
「誰もが自由に歌える場所だ」
*
1時間も経っただろうか。黒塗りの車が、ゆっくりと路地に入ってきた。
黒塗りの車からは、見慣れた副社長の姿。
その後ろには、作業着姿の男たちが続く。
工場の正社員たちだった。
「おや、賑やかですね」
副社長が、嫌味な笑みを浮かべる。
「うちの従業員が、ずいぶんと可愛がられているようで」
歌声が、ピタリと止まる。
李たちの表情が強張った。
「こら!お前ら!」
工場の作業員が怒鳴る。
「仕事はどうした!明日の朝番だろうが!」
「休みの日くらい...」
李が小さな声で言う。
「なに?」
作業員が詰め寄る。
「文句があるのか?」
その時だった。
作業員の一人が、李を突き飛ばした。
後ろを歩いていた老婆が、弾みでバランスを崩す。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
老婆は路地の角に頭を打ち付けた。
血が、石畳に滲む。
「先生!」
まちの声が響く。
一瞬の静寂。
そして...
「何すんねん!」
市場の若者たちが、作業員に詰め寄る。
「おどれら!」
魚屋の大将が、包丁を握ったまま店から飛び出してきた。
「待て」
ゲバラの声が、低く響いた。
「まず、この方の手当てを」
工場の面々も、事態の深刻さに気づいたのか、一歩後ずさる。
「私たちは、そんなつもりは...」
副社長の声が震えていた。
街は、一触即発の空気に包まれていた。
「ぶち殺したれや!」
若者がバットを振り下ろした。
その一瞬、路地は息を呑んだ。
誰も、ゲバラの動きを追えなかった。
振り下ろされたバットは、まるで空中で止まったかのように静止している。
ゲバラの左手が、確かな力でそれを受け止めていた。
「先生...」
若者の目が見開かれる。
全力で振り下ろしたバットが、まるで風船でも受け止めるように。
「大丈夫か、先生!」路地の人々が駆け寄る。
「す、すみません…!」若者の声が震える。
その瞬間、ゲバラの脳裏を、遠い記憶が走った。
グランマ号。
銃撃の嵐。
倒れていく仲間たち。
そして、生き残った者たちの、怒りに歪んだ顔。
「暴力は、何も生まない」
その声は低く、しかし路地の隅々まで届いた。
路地には、瞬く間に人が集まってきていた。
包丁を持った魚屋の若い衆、ペンチを握った町工場の職人、日雇いの労働者たち。
普段は穏やかな西成の街が、熱い怒りに震えていた。
が、ゲバラの姿に、皆が足を止める。
「やれるもんならやってみい!」
作業員たちも、背中を丸めて構える。
だが、その声には既に迷いが混じっていた。
「お前たちの怒りは、正しい」
ゲバラは静かにバットを地面に置く。
「だが、今、必要なのは...」
老婆の傷から、かすかに血が滲んでいた。
誰もが、その赤い色を見つめる。
勝者も敗者も、血の色は同じ。
その真実を、ゲバラは身をもって知っていた。
「勝者も敗者も、最後には同じ顔をする」
ゲバラは続けた。
「憎しみに歪んだ、同じ顔に」
路地は静まり返っていた。
「おばあちゃんの治療が先や」
又吉が、珍しく真剣な声で言った。
「暴力で終わらせたら、ここも『あっち』と同じになる」
ゲバラの目が、一瞬、又吉を見つめた。
彼も、何かを知っているような目をしていた。
「李くん」
ゲバラが声をかける。
「診療所を手伝ってくれ」
誰かが、バットをそっと置いた。
包丁を持っていた魚屋も、エプロンで手を拭う。
「あんたら」
又吉が工場の面々に向かって言う。
「帰りや。今日は、もう帰り」
副社長は、何か言いかけて、口を閉ざした。
黒塗りの車は、静かに路地を出ていく。
*
診療所では、まちが老婆の手当てを始めていた。
李が、タオルを差し出す。
言葉は通じなくても、その手は確かだった。
夜の街に、再び静けさが戻ってくる。
ギターの音も、歌声も、今は聞こえない。
ただ、人々の呼吸だけが、かすかに重なっていた。
老婆の手当てを終えたのは、夜更けだった。
幸い、大事には至らなかった。
「うち、近所やから」
魚屋の奥さんが、老婆の家まで送っていった。
李も付き添う。
片付けを終えた診療所で、ゲバラはシガリロに火をつけた。
その手が、かすかに震えているのを、まちは見逃さなかった。
「先生」
まちが、そっと声をかける。
「さっきの...」
「ああ」
ゲバラは窓の外を見つめたまま言った。
「人は、憎しみに支配されると、同じ顔になる」
診療所の古い蛍光灯が、かすかに明滅する。
「シエラ・マエストラでも、こんな夜があった」
ゲバラの声は、遠い日々を思い出すように途切れる。
「村が焼かれて、若者たちが報復に走ろうとして...」
まちは、黙って聴いていた。
先生が過去を語るのは、初めてだった。
「暴力は、相手の痛みを理解する力を奪う。理性も、思いやりも、すべてを」
煙が、静かに立ち昇る。
「そして、いつしか、自分が憎んでいた相手と同じ顔になる」
外で物音がした。
又吉が、ギターを背負って立っていた。
「あの頃はなぁ」
又吉が、珍しく渋い声で言う。
「わしらも、暴力で世界を変えられると思とった」
「学生運動...ですか?」
まちが尋ねる。
又吉は答えない。
ただ、遠くを見つめている。
その目は、ゲバラと同じ景色を見ているようだった。
「でも、先生」
又吉が続ける。
「今日は、ようやった。暴力を、音楽で止めた」
「音楽?」
ゲバラが振り返る。
「先生の声や」
又吉が言う。
「ギターを弾くのと、同じや。人の心に、すっと入っていく」
その夜遅く、李が診療所に戻ってきた。
「おばあちゃん、大丈夫」
彼は、片言の日本語で伝える。
ゲバラは黙って頷く。
「工場の人、怖い」
李は続ける。
「でも、暴力はダメ。分かります」
その時、李はポケットから、古い写真を取り出した。
天安門広場。
戒厳令下の北京。
若者たちの怒りと、戦車の影。
「父が...警察」
李は言葉を探す。
「でも、私に教えました。暴力は、人を分ける」
まちは、そっとお茶を差し出す。
「だから」
李の声が少し明るくなる。
「音楽が好き。音楽は、人を つなげる」
ゲバラは、診療所の隅のギターを見つめた。
「明日から」
彼は静かに言う。
「ここで歌おう。工場の人も、誰でも。共に過ごすことで、分かることもある」
窓の外では、誰かがラジオをつけていた。
夜の街に、かすかにメロディが流れる。
「明日は」
李が微笑む。
「中国の歌、教えます」
診療所の古い時計が、深夜を指していた。
街は静かだったが、そこには確かな希望が、小さな音符のように漂っていた。
(10話・終)