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「西成のチェ・ゲバラ」13 不法診療がバレた時の対策法、教えます

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第十三話 革命家と薬売り

新しい診療所の待合室に、爽やかな足音が響いた。
「失礼いたします」
スーツ姿の若い女性が、革のバッグを抱えて入ってくる。
三十前後だろうか。
背筋がピンと伸びている。

「ミヤコ製薬です」
まちの前で、彼女は会釈する。
これで四度目の訪問だが、その態度はいつも変わらない。

まちは、そっと顔を上げた。
この二週間で、三社の営業が出入りしている。
新しい診療所になってから、製薬会社の関心が高まっていた。

「先生は...」
「診察中です」
まちは受付の帳簿に目を落とす。

待合室には、いつもの顔ぶれ。
日雇いの労働者、路上生活者、技能実習生。
篠田は、その臭いに少し顔をしかめた。

「では、お待ちさせていただきます」
彼女は端正な立ち振る舞いで、椅子に腰掛ける。
が、その目は確かに、待合室の様子を観察していた。

処方箋の山。
カルテの束。
そして、患者たちの手帳...

入り口で、タバコ屋の親父が、ちらりと彼女を見る。
「また来とるな、あの営業の人」
小声で誰かに言う。

彼女はその声を無視するように、バッグから資料を取り出す。
だが、その目は患者の手帳を追っていた。
どこかで見た健康保険証。
さっきの患者と、微妙に内容の違う話...

診察の合間を縫って、ゲバラは彼女の説明を聞いていた。
新薬の説明。
副作用の詳細。
保険点数の解説。

「この度の新製品は、従来品より効果が-」
篠田は資料を広げながら、さりげなく診察室を観察する。
処方箋の山。古びた医療機器。安物のキャビネット。
建物は新しくなったが、中身は相変わらず質素だ。

ふと、彼女の目が処方箋の束に留まる。
宛名と、待合室の顔ぶれが、どこか噛み合わない。
住所も、この界隈にしては広範すぎる。

「この薬なら、喘息の患者さんにも」
その時、慌ただしく診察室のドアが開いた。

「先生!」
若い技能実習生が血を流しながら駆け込んでくる。
工場でのケガだろう。
作業着は油で汚れ、右手には深い切り傷。

ゲバラが素早く立ち上がる。
「すまないが」

「はい、失礼いたします」
篠田は丁寧に一礼する。
その仕草は、この慌ただしい空気の中で、どこか浮いていた。

待合室に戻ると、先ほどの患者が保険証を受付に返していた。
「ありがとう、おっちゃん」
その声に、篠田は耳を澄ます。

「また具合悪なったら、来いよ」
おっちゃんの声には、優しさが混じる。
その保険証は...彼女は手帳を開く。
確かに、昨日も同じ保険証で、別の「患者」が薬を...

外で救急車のサイレンが鳴る。
窓の外では、夕暮れが路地を染めていく。
タバコ屋の親父が、シャッターを下ろす音。
魚屋から、氷を砕く音。
市場の喧騒が、少しずつ柔らかくなっていく。

「お薬、ちゃんともらえた?」
誰かが路地で声をかける。
「うん、助かるわ」
答える声は、明らかに別人のもの。

篠田は、診察室のドアをもう一度見つめた。
売上は確かに伸びている。
この二ヶ月で、他のどの診療所よりも。
でも、この数字の中に、見えない何かが...

カバンに資料を片付けながら、彼女は考えていた。
この街の、目に見えない仕組み。
そして、その中心にいる医師の、測りがたい存在。

「また伺います」
彼女が立ち上がった時、まちは黙って頷いただけだった。

「篠田さん、このデータ、確認していただけます?」
本社の会議室で、上司が資料を差し出した。

「ポデローサ診療所、この三ヶ月の処方実績です」
グラフが、右肩上がりの曲線を描いている。

「弊社の新薬も、かなりの数字を...」
彼女は黙って頷く。
確かに、売上は良かった。
でも。

「ところで」
上司の声が、少し低くなる。
「気になる点があるんです」

机の上に広げられた資料。
処方箋の発行数。
患者数の推移。
保険請求の記録。

「数字の上では順調なんですがね」
上司はペンで何かをなぞる。
「この地域の人口から見て、やや不自然な...」

篠田の背筋が、わずかに強ばる。

「あの界隈には、そういう病院もあるって聞きますし」
「そういう、というと?」

「まあ」
上司は、言葉を選ぶように間を置く。
「保険証の使い回しとか。あるいは、ホームレスに流れる薬とか」

彼女の記憶に、診療所の風景が蘇る。
受付で保険証を返す男。
路地での、小さな会話。
そして...

「少し、詳しく調べていただけますか」
上司の声が、重く響く。
「もし本当なら、我々も無関係ではすまされない」



西成の路地は、夕暮れが深まっていた。
篠田は、診療所の向かいのコンビニに入る。
上着の下には、小型のビデオカメラ。

レジ前の椅子に座りながら、彼女は診療所の出入りを見つめていた。
コーヒーはもう三杯目。

「五回目か」
外で将棋を指していた老人が、彼女を見やる。
「商売熱心な営業さんやねぇ」

無視を決め込む篠田。
その時、目の前で何かが動いた。

年老いた男が、診療所から出てくる。
手には薬の袋。
そして、彼は路地の奥で若い男に何かを渡した。

「証拠は、これで十分...」
彼女がつぶやく時、男たちの表情が見えた。

若い男は、外国人労働者だった。
腕に包帯を巻き、顔色が悪い。
咳き込む声が、路地に響く。

「あの薬、高いやろ」
老人が、優しく肩を叩く。
「でも、これで熱も下がるはずや」

「ありがとうございます...」
若者は深く頭を下げる。
「お金は、必ず...」

「ええねん」
老人は笑う。
「俺の孫と、同い年やもんな」

篠田は、近くの喫茶店で考えていた。
これは、違法な売買だろうか。
それとも...

夜の三角公園に、誰かのギターの音が響き始める。
「♪Imagine there's no heaven...」
ゲバラの声は、決して上手くはない。
それでも、路地の人々が、自然と集まってくる。

篠田は、少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
昼間の白衣姿の医師が、今は路上のシンガーに。
その周りには、さっきまで診療所にいた人々。
保険証を融通し合っていた人々。
違法な処方箋の受取人たち。

技能実習生が、母国の歌を口ずさみ始める。
路上生活者が、缶ビールを回し飲みしている。
市場帰りの人々が、疲れた体を路肩に預ける。

「不思議な街」
彼女は小さくつぶやく。
昼間見ていた数字の向こう側に、確かな人の営みがある。

帰り際、携帯で上司にメールを打とうとした時だった。
路地の向こうから、急に車のライトが。
おそらく暴走族か、酔っ払い運転。
スピードを上げた車が、彼女に向かって...

「危ない!」
誰かが彼女を強く押し飛ばす。
将棋を指していた老人だった。

「大丈夫か!」
人々が駆け寄ってくる。
老人は路肩で膝を擦りむき、肩を強く打っていた。
全身を痛めたような表情。

「病院に...」
篠田が言いかける。
彼女の手も震えている。
スーツは汚れ、膝も擦り剥けていた。

「先生がおるから、ええわ」
老人は、苦しそうに笑う。
「それより、あんた無事か」

ゲバラのライブは中断された。
診療所の明かりが、再びともる。
夜の街に、パトカーのサイレンが遠ざかっていく。
暴走していた車を追いかけたのだろう。

ポデローサ診療所。
まちが手早く医療器具を用意する。
「おっちゃん、ちょっと痛いけど我慢してね」

「保険証は...」
老人は首を振る。
「しばらく使えへんのや」

「大丈夫だ」
ゲバラは静かに処置を始める。
消毒、包帯、そして鎮痛剤。
その手つきは、昼間と変わらない。

篠田は、その光景を見つめていた。
違法な処方。
保険制度の悪用。
でも、目の前で確かに救われる命がある。

「先生」
老人が言う。
「あそこの若いねーちゃんは、うちの街を見て回っとった人やろ」

ゲバラは黙って包帯を巻き続ける。
その手が、一瞬止まっただけ。

「ここはな」
老人は篠田を見る。
「命を大事にする街なんや。それだけや」

「でも、法律が...」
彼女の声が、途切れる。

「法律より大事なもんが、時々あるんや」
老人の声は、痛みをこらえながらも優しい。
「あんたも、それは分かるやろ」

診療所の古い蛍光灯が、かすかに明滅する。
外では、また誰かがギターを弾き始めていた。

翌朝、本社の会議室。
高層ビルの窓から、都会の景色が広がっている。

「調査の結果は?」
上司が尋ねる。
彼女の膝の傷を、気にしているようだった。

「特に、問題となる点は見当たりませんでした」

彼女は言葉を切った。
説明する必要はない。
昨夜の出来事が、すべてを物語っている。

窓の外では、新しい朝の光が、高層ビルを染めていた。
西成とは違う景色。
でも、確かに、同じ命の重みがそこにはある。

(第十三章・終)


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