「西成のチェ・ゲバラ」15-1 【速報】大嫌いなアメリカが街にやってきた
第十五話 帝国の灯火
朝もやの中、新今宮駅前に巨大なクレーンが影を落としていた。
ガラスとコンクリートの骨組みは、日に日に高さを増している。
「随分と、急ピッチですね」
診療所の窓から工事現場を見つめながら、まちが言う。
ゲバラはシガリロに火をつけ、煙を静かに吐き出した。
「アメリカ資本だからな。時間は金なんだろう」
その声には、かすかな冷笑が混じっている。
「スターホテルって、上層階からの夜景がすごいらしいです」
李が薬棚の在庫を確認しながら話に加わる。
「うちの工場の子たちも、就職先として考えてるみたいです」
ゲバラは黙って煙を見つめる。
工事現場のフェンスには、完成予想図が貼られていた。
「クリーンな職場」
「安定した収入」
「明るい未来」
宣伝文句が、まぶしいほどに並ぶ。
駅前では作業員たちが、新しい看板を設置し始めていた。
「WELCOME TO NISHINARI」
光り輝く文字の下で、通行人が足を止めて見上げている。
「先生、反対なんですか?」
まちの問いに、ゲバラは長く息を吐き出す。
「街が変わることは、悪いことじゃない」
シガリロの煙が、朝もやに溶けていく。
「問題は、誰のための変化か、というところだ」
市場からは、いつもの威勢のいい声が聞こえてくる。
「面接、受けようと思うてる子が何人もおるんです」
「あそこで働けたら、格好ええやん」
「西成も、変われるかもしれん」
期待に満ちた声々。
その向こうで、クレーンが唸りを上げる。
その時、待合室のドアが開いた。
作業着姿の若者が、左手を押さえて現れる。
工事現場での怪我だった。
「すみません。明日が面接なんで...」
「傷口、目立たないようにできますか?」
ゲバラは、黙って消毒液を取り出す。
包帯を巻きながら、若者の目の輝きが気になった。
希望に満ちた眼差し。
かつて革命前夜のハバナで、同じ輝きを持つ若者たちを見た。
そして彼らは...
シガリロの灰が、音もなく落ちる。
新しい風が、確実に街を変えようとしていた。
*
「不採用でした」
診療所に、李の声が重く響く。
工場の若い技能実習生が、面接で落とされたという。
「理由は?」
ゲバラは、カルテから目を上げる。
「『ホテルの雰囲気に合わない』って」
李の声に、かすかな怒りが混じる。
「日本語も上手なのに」
午後の診療所は静かだった。
市場の喧騒も、工事の音も、窓の外で遠く響くだけ。
「あの」
ベトナム人のバンが、控えめに声を上げる。
待合室の隅で、面接の順番を待っていたのだ。
「私も、やっぱり...」
その時、まちが飛び込んできた。
「先生!市場の田中さんのお兄さん、採用されたそうです!」
「腕のいい料理人を探してたみたいで」
ゲバラは黙ってシガリロを取り出す。
火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。
選別は、すでに始まっていた。
目に見えない基準で、誰かが誰かを、ふるいにかける。
その向こうに広がるのは、本当に「明るい未来」なのか。
「私、もう面接行きません」
バンが静かに立ち上がる。
「工場の仕事、続けます」
その時、外から歓声が上がった。
窓の外では、ホテルの最上階に看板が設置されている。
夕陽に輝く文字が、街を見下ろしていた。
「開業まで、あと一週間か」
ゲバラは、消えかけたシガリロを見つめる。
「先生」
まちの声が、診療所に響く。
「私たちも、見に行きましょう。開業式」
返事の代わりに、ゲバラは立ち上がり、棚から薬を取り出す。
まだ診察は終わっていない。
今日も、誰かが傷を抱えてやってくる。
外では、看板が夕陽に輝き続けていた。
その光は、街の明暗を、より鮮やかに描き出していた。
*
開業式の朝は、妙に静かだった。
普段なら市場の威勢のいい声が飛び交う時間。
今日は、シャッターの開く音も少ない。
皆が、駅前に集まっているからだ。
「行きましょう」
まちが、いつもより早く診療所に来ていた。
カメラを持っている。
記録のためだと言う。
ゲバラは黙って頷く。
白衣を脱ぎ、椅子の背もたれに掛ける。
今朝は、シガリロに火をつけなかった。
駅前には、すでに人が溢れていた。
地元の商店主たち。
町工場の面々。
日雇い労働者たち。
誰もが、首を伸ばして新しいホテルを見上げている。
「あれが支配人さんですって」
まちが、人垣の向こうを指さす。
背の高い白人男性が、カメラの前で微笑んでいた。
マイケル・スターリング。
三十代後半だろうか。
完璧に仕立てられたスーツが、朝の日差しに輝いている。
「This is a new chapter for Nishinari」
流暢な日本語を交えながら、支配人が語り始める。
「私たちは、この街と共に歩んでいきたい」
「どうか、皆さんも誇りを持って」
「新しい西成の、シンボルとして」
拍手が沸き起こる。
採用された従業員たちが、整然と並んでいた。
ピシッと決まった制服。
笑顔の練習もされただろう。
その中に、市場の田中の兄の姿もある。
誇らしげな表情。
だが、どこか緊張が見えた。
ゲバラは、静かにその光景を見つめる。
アメリカ資本が約束する「明るい未来」。
その言葉に、どこか既視感があった。
「Welcome to Nishinari!」
支配人の声が、再び響く。
テープカットの音。
拍手。
歓声。
紙吹雪が、朝の空に舞い上がる。
その祝福の雨の中で、ゲバラは考えていた。
この街に、また新しい風が吹き始める。
その風は、誰を抱き、誰を押し流すのか。
*
「あの...先生」
診療所に、田中の兄が制服姿のまま現れたのは、開業から一週間が過ぎた頃だった。
「包丁の持ち方がなってないって」
椅子に座ったまま、俯いている。
「もっと上品にって」
「でも、こうでないと、速く回らへん」
市場で二十年。
腕を認められての採用だったはずが。
「料理人として、プライドが...」
言葉が途切れる。
その時、外で怒号が響いた。
「なんじゃ、この態度は!」
「お前ら、なめとんのか!」
窓の外では、酔った男たちが警備員と揉めていた。
ホテルのエントランス前。
制服の警備員が、冷たく突っ立っている。
「先生!」
まちが駆け出す。
スマートフォンのカメラを構えながら。
男たちは路上生活者のようだった。
着古したジャケット。
酒の匂い。
昼間から酔っているのは、良くない。
でも、この街では珍しくもない光景。
「お前らのホテルやと?」
「この街を、なめんな!」
警備員が無線を手に取る。
男たちの一人が、ロビーに向かって空き缶を投げ込んだ。
どこからか、外国人観光客らしき家族が、恐る恐る姿を見せる。
子供が母親にしがみつく。
支配人が駆けつけてきた。
「Call the police」
冷たい声が、街に響く。
その夜。
診療所の電話が鳴った。