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「西成のチェ・ゲバラ」18 工場がなんか爆発した

第十八話 爆発と望郷

入道雲が、夏の空を覆っていた。

診療所の窓から見上げると、
雲の端が、工場の煙突と重なって見える。
その境界線が、ゆっくりと崩れていく。

「先生!」
まちが駆け込んでくる。
スマートフォンには、速報が点滅していた。

工場爆発。
負傷者多数。
詳細は不明。

「東帝の工場です」
まちの声が震える。
「李さんたちが働いている...」

ゲバラの表情が、一瞬こわばる。
あの火災の時から、何も変わっていなかったのか。

「バンから連絡が...」
まちが携帯を見つめる。
「十人以上が...」

その言葉が終わらないうち、
ゲバラはすでに動き出していた。

聴診器。
救急バッグ。
必要最小限の医療器具。

かつて、ボリビアの山中で身につけた、
緊急時の動きを、体が覚えていた。

工場の前は、すでに規制線で封鎖されている。
救急車と消防車が、次々と到着する。
黒煙が、まだ建物から立ち上っていた。

「この先は...」
若い警官が制止しようとする。

「医師です」
ゲバラは静かに告げる。
「ポデローサ診療所の...」

「先生!」
規制線の向こうから、李が駆け寄ってくる。
作業着は煤けて、額から血が滲んでいた。

「まだ、中に...」
李の声が途切れる。
「友達が...」

その時、工場の奥で、
何かが崩れる音がした。
そして誰かの悲鳴が。

「中国語、ベトナム語...」
李が息を切らせながら説明する。
「言葉が通じなくて、救急隊も...」

ゲバラは黙って規制線をくぐった。
若い警官が制止しようとしたが、
その目の強さに、言葉を飲み込む。

「まち」
歩き出しながら、ゲバラが告げる。
「バンを呼べ。そして...」

まちは頷く。
これから必要になるものは、
医療器具だけではない。
記録という名の、もう一つの武器。

黒煙の向こうから、次々と負傷者が運び出されてくる。
消防隊員に支えられ、
あるいは担架で運ばれ、
時に仲間に背負われて。

ゲバラの目が、一瞬で状況を把握していく。

赤。黄。緑。
トリアージの色分けが、
頭の中で次々と決まっていく。

これは、戦場の医師の技術だった。

眉間から血を流す若者。緑。
右腕に大きな火傷。黄。
胸を押さえて苦しむ男性。赤。

その時、悲鳴が響く。

「先生!」
李が叫ぶ。
「タンさんが!」

がれきの陰で、若い技能実習生が横たわっていた。
胸から腹にかけての大やけど。
肺が焼けている。

「助けて...」
傍らで、バンが懇願する。
「タンは、まだ二十歳です」

ゲバラは一目で分かっていた。
この傷では...

「家族が、ベトナムで待ってます」
バンの声が震える。
「母親が...」

指先が、黒のタグに触れる。
その時、青年が目を開いた。

「母に...会いたい」
かすかな声。
しかし、確かな意志が込められている。

「先生!」
李の声が遠くで呼ぶ。
「別の人が!重傷です!」

ゲバラの手が止まる。
救えない命か、救える命か。
その選択を、何度もしてきた。
ボリビアの山中で、
キューバの診療所で。

「まち」
ゲバラが静かに告げる。
「モルヒネを」

まちは黙って頷く。
医療バッグから注射器を取り出す手が、
かすかに震えている。

バンは、タンの手を握ったまま、
祈るように目を閉じていた。

「母親の名と、住所も」
走り出しながら、ゲバラが付け加える。
「記録を」

スマートフォンのメモに、
最期の言葉が記されていく。

記録すべきは、救える命だけではない。
救えなかった命の、最期の願いも。

「これは不可抗力による事故です」

東帝開発の総務部長が、現場に足を踏み入れる前から、電話で声を上げていた。
高価なスーツに汗一つかかっていない。

「マスコミ対応は本社で一括。補償はガイドライン通り。実習生受け入れ停止だけは避けたい」

言葉が、次々と重なる。
タンの心臓が止まろうとしている音も聞こえないくらいに。

「こちらで適切に処理しますので」
総務部長が、ゲバラたちに目をやる。
「余計な詮索は...」

「詮索?」
ゲバラの声が低い。
「二十歳の命を、余計と?」

「実習生ですから」
総務部長が、高価なネクタイを直しながら告げる。
「言葉の壁もありますし。こういうリスクは織り込み済みというか」

パキン。

時計の針が止まったように、空気が凍る。
総務部長の携帯が地面を転がり、
彼の頬が真っ赤に腫れ上がっていた。

ゲバラの拳が、まだ震えている。

まちは息を呑む。
初めて見る光景だった。
いつも静かなゲバラが、人を。

「貴様ら!」
ゲバラの声が轟く。

「暴力です!警察に!」
総務部長が後ずさる。

「呼べ!」
ゲバラが震える拳を突き上げる。
「お前たちの安全管理の実態も、偽装された記録も、全部吐き出せ!」
「二十歳の青年が、なぜ母親に会えなくなったのか、説明しろ!」

総務部長は震える足で後ずさりながら、そのまま逃げるように消えていった。

「先生!タンさんが!」
バンの叫び声が響く。

「母に...会いたい」
タンの声が、消えていく。
「伝えて...バンさん」
「弟の学費...必ず」

その言葉は終わらなかった。

バンは、泣きながら通訳する。
母への言葉を。
約束を。
そして、謝罪を。

「何も悪くない」
ゲバラは静かに告げる。
「お前は、十分頑張った」

「タンの母さんに...」
まちが、震える手でメモを取る。
「伝えることは...」

「すべてだ」
ゲバラの声が冷たい。
「死因も、理由も、真実も」
「そして、息子の最期の言葉を」

バンが、タンの携帯を握りしめる。
画面には、母との最後のやり取りが残っていた。
『お母さん、今日も仕事頑張ります
弟の学費、必ず送ります
心配しないで』

李が、そっと目を閉じる。
誰もが、自分の母を思い出していた。

夕暮れ。
救助活動は、ようやく終わりを迫れていた。

残されたのは、黒く焦げた工場の外壁と、
冷たくなった約束と、記録された真実だけ。

診療所に戻る道すがら、まちは何も言えずにいた。
ゲバラの横顔に、深い影が落ちている。

「先生...」
まちが、そっと声をかける。
「あれは...仕方ないです...私たちにできることを...」

ゲバラは、答えなかった。
無力な怒り。
消えた命への痛み。
そして、医師としての自責。

入道雲が、夕陽に染まっていた。


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