「西成のチェ・ゲバラ」18 工場がなんか爆発した
第十八話 爆発と望郷
入道雲が、夏の空を覆っていた。
診療所の窓から見上げると、
雲の端が、工場の煙突と重なって見える。
その境界線が、ゆっくりと崩れていく。
「先生!」
まちが駆け込んでくる。
スマートフォンには、速報が点滅していた。
工場爆発。
負傷者多数。
詳細は不明。
「東帝の工場です」
まちの声が震える。
「李さんたちが働いている...」
ゲバラの表情が、一瞬こわばる。
あの火災の時から、何も変わっていなかったのか。
「バンから連絡が...」
まちが携帯を見つめる。
「十人以上が...」
その言葉が終わらないうち、
ゲバラはすでに動き出していた。
聴診器。
救急バッグ。
必要最小限の医療器具。
かつて、ボリビアの山中で身につけた、
緊急時の動きを、体が覚えていた。
*
工場の前は、すでに規制線で封鎖されている。
救急車と消防車が、次々と到着する。
黒煙が、まだ建物から立ち上っていた。
「この先は...」
若い警官が制止しようとする。
「医師です」
ゲバラは静かに告げる。
「ポデローサ診療所の...」
「先生!」
規制線の向こうから、李が駆け寄ってくる。
作業着は煤けて、額から血が滲んでいた。
「まだ、中に...」
李の声が途切れる。
「友達が...」
その時、工場の奥で、
何かが崩れる音がした。
そして誰かの悲鳴が。
「中国語、ベトナム語...」
李が息を切らせながら説明する。
「言葉が通じなくて、救急隊も...」
ゲバラは黙って規制線をくぐった。
若い警官が制止しようとしたが、
その目の強さに、言葉を飲み込む。
「まち」
歩き出しながら、ゲバラが告げる。
「バンを呼べ。そして...」
まちは頷く。
これから必要になるものは、
医療器具だけではない。
記録という名の、もう一つの武器。
*
黒煙の向こうから、次々と負傷者が運び出されてくる。
消防隊員に支えられ、
あるいは担架で運ばれ、
時に仲間に背負われて。
ゲバラの目が、一瞬で状況を把握していく。
赤。黄。緑。
トリアージの色分けが、
頭の中で次々と決まっていく。
これは、戦場の医師の技術だった。
眉間から血を流す若者。緑。
右腕に大きな火傷。黄。
胸を押さえて苦しむ男性。赤。
その時、悲鳴が響く。
「先生!」
李が叫ぶ。
「タンさんが!」
がれきの陰で、若い技能実習生が横たわっていた。
胸から腹にかけての大やけど。
肺が焼けている。
「助けて...」
傍らで、バンが懇願する。
「タンは、まだ二十歳です」
ゲバラは一目で分かっていた。
この傷では...
「家族が、ベトナムで待ってます」
バンの声が震える。
「母親が...」
指先が、黒のタグに触れる。
その時、青年が目を開いた。
「母に...会いたい」
かすかな声。
しかし、確かな意志が込められている。
「先生!」
李の声が遠くで呼ぶ。
「別の人が!重傷です!」
ゲバラの手が止まる。
救えない命か、救える命か。
その選択を、何度もしてきた。
ボリビアの山中で、
キューバの診療所で。
「まち」
ゲバラが静かに告げる。
「モルヒネを」
まちは黙って頷く。
医療バッグから注射器を取り出す手が、
かすかに震えている。
バンは、タンの手を握ったまま、
祈るように目を閉じていた。
「母親の名と、住所も」
走り出しながら、ゲバラが付け加える。
「記録を」
スマートフォンのメモに、
最期の言葉が記されていく。
記録すべきは、救える命だけではない。
救えなかった命の、最期の願いも。
*
「これは不可抗力による事故です」
東帝開発の総務部長が、現場に足を踏み入れる前から、電話で声を上げていた。
高価なスーツに汗一つかかっていない。
「マスコミ対応は本社で一括。補償はガイドライン通り。実習生受け入れ停止だけは避けたい」
言葉が、次々と重なる。
タンの心臓が止まろうとしている音も聞こえないくらいに。
「こちらで適切に処理しますので」
総務部長が、ゲバラたちに目をやる。
「余計な詮索は...」
「詮索?」
ゲバラの声が低い。
「二十歳の命を、余計と?」
「実習生ですから」
総務部長が、高価なネクタイを直しながら告げる。
「言葉の壁もありますし。こういうリスクは織り込み済みというか」
パキン。
時計の針が止まったように、空気が凍る。
総務部長の携帯が地面を転がり、
彼の頬が真っ赤に腫れ上がっていた。
ゲバラの拳が、まだ震えている。
まちは息を呑む。
初めて見る光景だった。
いつも静かなゲバラが、人を。
「貴様ら!」
ゲバラの声が轟く。
「暴力です!警察に!」
総務部長が後ずさる。
「呼べ!」
ゲバラが震える拳を突き上げる。
「お前たちの安全管理の実態も、偽装された記録も、全部吐き出せ!」
「二十歳の青年が、なぜ母親に会えなくなったのか、説明しろ!」
総務部長は震える足で後ずさりながら、そのまま逃げるように消えていった。
*
「先生!タンさんが!」
バンの叫び声が響く。
「母に...会いたい」
タンの声が、消えていく。
「伝えて...バンさん」
「弟の学費...必ず」
その言葉は終わらなかった。
バンは、泣きながら通訳する。
母への言葉を。
約束を。
そして、謝罪を。
「何も悪くない」
ゲバラは静かに告げる。
「お前は、十分頑張った」
「タンの母さんに...」
まちが、震える手でメモを取る。
「伝えることは...」
「すべてだ」
ゲバラの声が冷たい。
「死因も、理由も、真実も」
「そして、息子の最期の言葉を」
バンが、タンの携帯を握りしめる。
画面には、母との最後のやり取りが残っていた。
『お母さん、今日も仕事頑張ります
弟の学費、必ず送ります
心配しないで』
李が、そっと目を閉じる。
誰もが、自分の母を思い出していた。
*
夕暮れ。
救助活動は、ようやく終わりを迫れていた。
残されたのは、黒く焦げた工場の外壁と、
冷たくなった約束と、記録された真実だけ。
診療所に戻る道すがら、まちは何も言えずにいた。
ゲバラの横顔に、深い影が落ちている。
「先生...」
まちが、そっと声をかける。
「あれは...仕方ないです...私たちにできることを...」
ゲバラは、答えなかった。
無力な怒り。
消えた命への痛み。
そして、医師としての自責。
入道雲が、夕陽に染まっていた。