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「西成のチェ・ゲバラ」21 あいつ、革命家のくせに高級カメラを使うらしい
第二十一話 ライカの記憶
釈放されて暫く経ったある日。ライカの黒い本体が、夕陽を反射して瞬いた。
ゲバラは何かを思い出したように立ち上がった。
「先生、どこ行くんですか?」
カルテを整理していたまちが顔を上げる。
「まだ片付けてないんですけど」
「少し用事だ」
「また何か企んでるんですね、私も行きます」
「...」
「ペケペケさんとこでしょ?私も頼みたいものがあったんです」
ゲバラは黙って歩き出した。
後ろから、まちの足音が追いてくる。
路地裏の工房は、いつもの工具の匂いを漂わせていた。
看板はない。必要のない場所だ。
「よう、先生」
機械の部品に埋もれた男が顔を上げる。
「珍しいな」
「ペケペケ」
ゲバラは工房の中を見回した。
「ライカを頼んだ時の...」
「ああ」
男は作業の手を止め、奥の棚に目をやった。
「すまんな。預かってたフィルム、すっかり返すの忘れとった」
古い缶を取り出しながら、ペケペケは続けた。
「それと、もう一本見つけてん。古いやつや」
ゲバラの目が僅かに細まる。
「暗室なら、あるで」
ペケペケは裏の作業場を指差した。
「化学薬品も、揃えといた」
まちは黙って二人の会話を聞いていた。
先生の過去の何かが、その古い缶の中で眠っているのだろう。
*
赤い安全光が点される。
外の音が遮断され、密室に静寂が満ちた。
現像液の匂いが、古い記憶を呼び覚ます。
ゲバラの手の動きに、迷いはなかった。
半世紀前の感覚が、まだ体に染みついている。
「先生、写真やってたんですね」
まちが、暗室の隅から声を潜めて言う。
返事はない。
ゲバラは現像液の温度を確認し、現像時間を計り始めた。
その仕草には、どこか儀式めいた厳かさがあった。
最初の一枚が、液面に姿を現す。
あいりん総合センター前。朝もやの中の人影たち。
日雇い労働者が列を作り、仕事を待っている。
誰かが咳をする。誰かがタバコを消す。
次の一枚。
市場の競りの瞬間。
魚屋の大将が、マグロの切り身を吟味している。
早朝の光が、刃物の輝きを捉えていた。
「うまい」
まちが思わず声を漏らす。
露天商の老婆。
段ボールの上に並ぶ野菜。
しわだらけの手が、大根の値札を書き換えている。
診療所の窓辺。
待合室に座る男。
使い古したマスクの下で、誰かを待っている表情。
「あっ」
まちの声が、暗室の闇を切る。
「ここから...違いますね」
ゲバラは黙って頷いた。
次の写真から、風景が一変する。
岩肌が切り立つ山々。
獣道のような細い道。
高度が高いのか、空気が薄く見える。
「これは...」
まちの声が、震えていた。
西成の路地から、突然、見知らぬ山岳地帯へ。
その唐突な風景の転換に、彼女は息を呑む。
野営地の光景が、現像液の中からゆっくりと浮かび上がる。
粗末なテントの下で眠る兵士たち。
毛布にくるまった若い顔。
まだ子供と言ってもいい年齢の者もいる。
その横で、誰かが手紙を書いている。
ランプの灯りに照らされた文字たち。
母親だろうか、恋人だろうか。
明日が約束されない場所からの、最後の言葉かもしれない。
「みんな...どうなったんでしょう」
まちの問いに、答える者はいない。
次の一枚。
朝もやの中の移動風景。
岩場に這いつくばるように進む影たち。
誰かが倒れる。誰かが手を差し伸べる。
勝利のための戦いなのか。理想のための戦いなのか。
それとも、ただ生き延びるための行進なのか。
ゲバラの手が、一瞬止まる。
そして、また現像液の中へ。
夜の写真。
焚き火の周りの兵士たち。
誰かが歌っている。誰かが祈っている。
銃を膝に置いた手が、かすかに震えている。
殺し、殺される運命を前に、ただ夜明けを待つ。
最後の一枚。
負傷した兵士を介抱する場面。
その目には、もう戦う炎は見えない。
ただ故郷を、愛する者たちを思う影だけが。
まちは、一枚一枚の写真に見入っていた。
そこには戦場の英雄も、革命の指導者も写っていない。
ただ、人間の弱さと、それでも生きようとする強さだけが。
「もう一本」
ゲバラが古い缶を手に取る。
その声は、いつもより低く、深かった。
「多分、キューバだ」
まちは、ゲバラの横顔を見つめた。
赤い安全光に照らされた表情には、かつての戦いの影が、まだ残っていた。
古い缶から取り出されたフィルム。
表面には、埃と時間が積もっていた。
「1965年1月...」
日付の文字が、かすかに判読できる。
ゲバラの手つきが、わずかに変わる。
より慎重に、まるで壊れ物を扱うように。
ハバナの路地裏。
現像液の中から、最初の光景が姿を現す。
石畳の上で遊ぶ子供たち。
誰かが凧を揚げている。
誰かがビー玉を転がしている。
「みんな、楽しそうですね」
まちが、写真を覗き込む。
ゲバラは黙って次の一枚を液に浸した。
市場の風景。
野菜を売る老婆の誇らしげな表情。
もう誰にも頭を下げる必要のない、自由な背筋。
その傍らには、ソ連製の缶詰が山積みになっている。
マレコンの夕暮れ。
防波堤に腰掛ける若者たち。
ギターの音が聞こえてきそうな、穏やかな時間。
誰かが歌い、誰かが酒を飲む。
銃を持つ手は、楽器を奏でる手に変わっていた。
執務室での一枚。
机に向かう姿。
積み上げられた貿易協定書の山。
葉巻の煙が、天井に漂っている。
「机上の数字は」
低い声が、闇に溶けていく。
「人の顔を見せない」
アルジェでの演説原稿。
走り書きの文字が、紙面を埋めている。
その横に置かれた、モスクワからの電報。
最後の写真。
カストロとの対話。
二人は何かを笑っている。
しかし、その笑顔の奥には、既に決別の影が差している。
ゲバラは写真を長く見つめていた。
暗室の赤い光が、その横顔を不思議な色に染める。
「権力というものは」
フィルムを巻き取る手が、一瞬止まる。
「人を遠ざける」
それ以上の言葉はなかった。
しかし、まちには分かった。
なぜ彼が、あの執務室を去り、
なぜ、この街の路地を歩くのか。
写真は全て現像され、順番に紐にかけられている。
西成、ボリビア、キューバ。
それは単なる時系列ではなく、一つの魂の軌跡だった。
「もう少し」
まちが、ライカを指さす。
「撮り足すところが、ありますよね」
ゲバラは黙って頷いた。
新しい戦場。
新しい革命。
それは、まだ始まったばかりだった。
*
夜の診療所。
窓から漏れる街灯の光が、机の上の写真を照らしている。
「ペケペケさんには?」
まちが、現像した写真を封筒に入れながら訊く。
「西成の分だけでいい」
ゲバラは窓の外を見ていた。
あいりん総合センターの暗い輪郭が、夜空に浮かんでいる。
「これは...」
まちが一枚の写真を取り出す。
センター前で仕事を待つ男たち。
「今日撮った人たちと、一緒ですね」
ゲバラは黙って頷く。
半世紀前のボリビアで、命を懸けた若者たち。
今、この街で明日の仕事を待つ人々。
闘いの形は違えど、その眼差しは同じだった。
「先生」
まちが、キューバの写真に目を落とす。
「あの机に、戻りたいと思ったことは...」
質問は途中で途切れた。
答えは既に、目の前にあった。
白衣のポケットから覗くペン。
机の上に積まれたカルテ。
路地で出会う人々の顔。
外から、又吉のギターの音が漏れてくる。
誰かが咳をする。
誰かが缶を蹴る。
夜の底から、街が息づいている。
ゲバラは立ち上がり、ライカを手に取った。
フィルムを巻き上げる音が、静かに響く。
「先生」
まちが、診察券を手に立っていた。
「明日の予約が、三人入ってます」
「ああ」
返事は短かった。
だが、その声には確かな手応えが滲んでいた。