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「西成のチェ・ゲバラ」 11話 革命家と強制退去 -誰が為に国は在る

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第十一話 誰が為に国は在る


朝もやが、西成の街を覆っていた。
あいりん総合センター前に、黒い人影が集まり始める。
機動隊だ。

「強制執行が、始まるんですって」
まちが、診療所の窓から通りを見つめながら言う。
「やっぱり、こないだの暴動の影響が…」

ゲバラは黙って頷く。
この光景は見覚えがあった。
1958年、ハバナ。
武装した警察隊。
追い立てられる民衆。
その時は、山から銃を向けることができた。

だが、今。
白衣のポケットには、聴診器しかない。

「先生」
診療所に、最初の避難者が駆け込んでくる。
高齢の男性。
荷物は、レジ袋一つだけ。

「血圧の薬が、なくなりそうで...」
震える声。
それは薬の心配ではなく、明日への不安。

外では、機動隊の命令を告げる声が響く。
「速やかに、退去してください」
スピーカーの声が、朝もやに吸い込まれていく。

「ここにおってもかまへん」
待合室の男性が、毛布を差し出していた。
「みんな、ここにおるんや」

診療所の中は、少しずつ人で埋まっていく。
路上生活者、日雇い労働者、高齢者たち。
行き場を失った人々が、静かに集まってくる。

かつて革命家は、こんな時、銃を取った。
人々の権利を守るために、武器を手にした。
だが、今のゲバラには、ただ待つことしかできない。

その無力感が、胸に重くのしかかる。

「行くところがないんや」
毛布にくるまった老人が呟く。
「これからどないしたらええんや」

「お薬は、ちゃんとありますから」
まちが、そっと声をかける。
だが、それは答えにならない。

ゲバラは窓の外を見つめていた。
機動隊の前で、抵抗する者もいる。
若者たちが、プラカードを掲げている。
カメラを構えるマスコミ。
そして、淡々と作業を進める行政職員たち。

「先生、動画、撮っていいですか?」
まちがスマートフォンを手に取る。
「記録として...」

ゲバラは静かに頷く。
銃ではなく、カメラ。
爆弾ではなく、SNS。
時代は変わった。

日が昇るにつれ、センター前の喧騒が街中に響いてくる。
「速やかに退去せよ」
「どこに行けというんや!」
「人の命を何やと思ってんねん!」

診療所の待合室は、息を潜めたように静かだった。
誰もが、外の音に耳を傾けている。

「先生」
又吉が、珍しく険しい顔で入ってきた。
「機動隊が、力づくで...」

その言葉に、ゲバラの記憶が走る。
シエラ・マエストラでの夜明け。
装甲車の轟音。
火薬の匂い。
叫び声。

「行ってきます」
まちが立ち上がる。
「現場の映像を...」

「待て」
ゲバラの声が、低く響く。
「危険だ」

「でも、誰かが記録しないと」
彼女の目が、決意に満ちている。
「SNSで、もう拡散され始めてます。全国から...」

その時、李たちが診療所に飛び込んでくる。
「警察が!老人を!」

ゲバラは、反射的に立ち上がった。
かつての革命家の血が、騒ぎ出す。

「先生」
待合室の老人が、静かに言う。
「あんたは、ここにおってくれ」

「そうや」
魚屋の大将も頷く。
「ここが要るんや」

ゲバラは黙って聴診器に触れる。
確かに、ここには守るべき命がある。
だか…

窓の外で、機動隊の盾が黒く光る。
行政職員が、淡々と作業を続けている。
追い立てられる人々。

「すまない」ゲバラはつぶやく。
白衣を脱ぎ、椅子の背もたれに掛ける。
「今日だけは、医者ではいられない」
聴診器が、机の上で冷たく光る。

「先生…?やめてください!」
まちの声が、背後で消えていく。

朝もやの中を、ゲバラはゆっくりと歩いていく。
機動隊の列に向かって。
装甲車のエンジン音が、地面を震わせている。

彼は、その前に立った。
黒い装甲車と、整然と並ぶ機動隊の盾。
その前に、たった一人で。

「退いてください」
若い機動隊員の声が、不安げに揺れる。

「撃ってみるか」
ゲバラの声は、静かだった。
「こんなことは慣れっこだ」ボリビアの記憶が蘇る。

上官が前に出てくる。
「我々は、法に従って...」

「法?」
ゲバラの瞳が、冷たく光る。
「では問おう。法は誰を守るためにある」

「秩序の維持のために...」

「秩序?」
ゲバラが一歩前に出る。
機動隊の列が、わずかに揺らぐ。
「人の命より、紙切れの秩序が大切なのか」

沈黙が、センター前に落ちる。
若い機動隊員の手が、盾の上で震えている。

「私は見てきた」
ゲバラの声が、低く響く。
「人々を守るはずの権力が、逆に民衆を押しつぶすのを」
「人を守ると誓った銃が、貧者に向けられるのを」
「そして、それを『法』の名で正当化するのを」

上官の目が、かすかに揺れる。

「お前たちはそれでいいのか」
ゲバラの声が、徐々に熱を帯びていく。
「制服の下の、人間としての心は、どこにある」

「我々にも、命令が...」

「命令か」
ゲバラの目が、燃え上がる。
「では、誰が人々の命を守る?誰が弱者の声を聴く?」
「国家とは何のためにある!権力は人々を虐げるためにあるのか!」

その声が、朝もやを切り裂く。
機動隊の列が、大きく揺らぐ。

「これ以上、前には...」
上官は銃口をゲバラに向けた。声に、迷いが滲む。

「撃て、臆病者め」
ゲバラは両手を広げる。
「だが覚えておけ。お前たちは今日、人々を守る代わりに、人々を追い立てる側に立った」

装甲車のエンジン音が、再び大きくなる。
上からの命令。
止められない歯車が、再び動き出す。

「進みます」
機動隊の列が、ゆっくりと前進を始める。

かつて山の上で、同じ光景を見た。
あの時は、この流れを止めることができた。
だが今、彼の手の中には何もない。

それでも、ゲバラは動かなかった。
追い立てられる人々の、最後の砦として。

機動隊に押し戻されたゲバラは、その場に立ち尽くしていた。
朝もやは晴れ、夏の陽射しが街を照らし始めている。

センターの前で、作業は淡々と進む。
老人たちが、少しずつ追い立てられていく。
プラカードを掲げる若者たちも、次第に押し戻されていく。

「先生」
背後から、まちの声。

振り返ると、路地には人が溢れていた。
追い立てられた人々。
それを見守る住民たち。
カメラを構えるマスコミ。
そして、診療所の窓からこちらを見つめる患者たち。

「撮影、させてもらいました」
まちがスマートフォンを見せる。
先ほどの一部始終が、すでにSNSで拡散され始めている。

ゲバラは黙って頷く。
かつて、銃で勝ち取ろうとしたものを、今は別の方法で...

「うちの店、開けとくで」
八百屋の主人が声をかける。

「寺も、門開けてくれてる」
魚屋の若い衆も続く。

追い立てられた人々が、少しずつ路地に消えていく。
市場の軒先。
寺の境内。
古い長屋の一室。
誰かの家の縁側。

ゲバラは、診療所に戻った。
椅子の背もたれに掛けられた白衣を、静かに手に取る。

白衣を身につけながら、ゲバラは窓の外を見つめていた。
機動隊は撤収し始めている。
センターの前には、バリケードが張られ、警備員が立っている。

表向きは、権力の勝利。
制度という名の暴力が、今日も人々を追い立てた。

「先生」
李が、診療を待つ人々の名簿を持ってくる。
追い立てられた人々の数が、いつもより多い。

「路地の奥で、具合の悪い人が...」
まちが告げる。
「市場の軒先にも...」
「寺の境内でも...」

ゲバラは静かに頷く。
聴診器を首に掛け、カルテを手に取る。
だが、その目は、さっきまでとは違う光を宿していた。

「記録は続けるんだ」
彼は低い声で言う。
「この街で起きること、すべてを」

SNSには、今日の光景が次々とアップロードされている。
非情な権力の姿。
しかし、同時に広がる助け合いの輪。

「今度は」
ゲバラの声が、静かに響く。
「銃弾より確かなもので、戦おう」

カルテの束が、夏の陽射しに光る。
それは、新しい戦いの記録。
追い立てられる者たちの、消せない証。

「診察を始めよう」
ゲバラが言う。
その声には、かつての革命家の炎が、静かに、しかし確かに燃えていた。

窓の外では、又吉のギターの音が流れ始めていた。
追われた人々が、路地で眠りにつく夜。
西成の空に、新しい戦いの夜明けが近づいていた。

(第11話・終)


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