「自己の世界はいつでも、既に完成している。」
文脈がおかしく、タイトルや内容が、混乱して間違っていると編集で削除してしまい思いだせなくて申し訳ないが、とにかく、よんでください。
断捨離で金持ちを目指す考えは、矛盾している。
ところが、昨日、その動画に行きついた、いきさつは忘れたが、「人生が劇的に変わる!片付けの心理学」と言うタイトルに目が止まったが、私は、「又、どうせ捨てる事の重要性」について述べているのあろと、予感した。私は、断捨離によって金持ちになる様な矛盾した考えはないと思っていた。なぜなら、断捨離、つまり、捨てる事で、執着を捨てる事、なのであるが、それらの動画で、よく言われる事は、貧乏な家は、物が多く、金持ちは、物が少ない、と言う事を、特に強調しているが、断捨離の基本的考えは、執着を捨てると言う、確かヨガの教理を生活に取り入れる事であり、金持ちになる事ではなく、執着をすてるのであれば、たとえば、スポーツカーをコレクションしたり、その他にも、お気に入りの洋服や、バックをコレクションする事も執着であり、金持ちの感覚とは、大きく違う事を意味し、金持ちになる為に断捨離を行うのは、元々、矛盾した考えであるあるからである。
捨てる事が、正しいかは別として、お気に入り囲まれた気持ち良い生活は送れる。
その動画では、何が大事で、何が不必要かを明らかにし、お気に入りの品々だけに囲まれた生活をすることで、すべてが、良い方向に進む等、説得力ある内容であった為、実は、その気に成り、捨てるべきものは捨てた方が良いと思いだしたが、妻がそれに、待ったをかけてくれた。そのかけ方は、説明しづらいので、割愛するが、私は、もう一度、考え始めた。 確かに、論理的には、動画の考えは、時代に見合い、理窟的にも、的をえているが、スペースがないならともかく、又、優雅な生活を送りたいなら、その方が、良いかも知れない。 しかし、物を粗末に扱い、大事にしないで、もったいない事をする事に慣れる事は、自己の魂に対し、どうなのか?たとえば、過去を振り返り、その言葉にのせられ、捨てたために、取り返しのつかない事に成った事もあった。モノは、波動を出している為、捨てない方が逆に悪い結果をもたらす事も確かにあるが、その逆に、助けられることもある。とにかく、それを決めるのは、まだ早いし、動画の様にルールを決めて、機械的に処理するより、自己の感覚に従ってその時を、選んで捨てた方が正しいだろうと、考え治した。
本題はこれからであるが、その次に続けて見た「幸せに成るたった一つの習慣」と「自分を変えるたった一つの習慣」が私を大きく導いた。
「幸せに成るたった一つの習慣」 と 「自分を変えるたった一つの習慣」には、脳科学的な説明も含まれているので、自分が陥っていた、過ちについて理解した。又、同チャンネルで、自分が、メンタル的にも、人間的にも完成というか、熟成していないのに他人を変えようとかしていたことや、自分のメンタル的弱点について理解し、かなり大きく影響を受けた訳であるが、今回、実は、これらの動画についての案内だけで事足りたのであるが、タイトルに、「自己の世界はいつでも、既に完成している。」と何故か、あげてしまった。
我々は、時々において、迷い、考え、選び、生きているが、それは、その時そうすべき時であるからであろうと、思われるが、絶望に陥り、絶望感に浸って生きている時も、時としてあり、それは、それで良いと私は、思うが、人生と言う限られた時間の中に縛られて、人生、せいぜい、80年とか100年と考えず、その気があれば、生きたいだけ生きられると言う前提に立ち、元気や、若さも、取り戻せると、まず、信じ、動画にあるように、言葉にして日々使い、希望通りな生き方を実現したい。
人生は確かに限られた時間の中にあるのかも知れないが、無限と言う時を考えると、完成された自己の世界というものは、段階はあるものの、いつでも既に完成された世界と言う形で存在していると、私には、思える。
私達は、むしろ、その完成された世界から、例えば、記憶を振り返る様に、あるいは、望むプランを立てて、この時代へ、様々な理由から、やって来ていると思えてならない。
まず、完成と言うものが、もしないならば、努力や、励み、勉強、成長と言うもの自体、意味を成さないと思える事だ。
確かに、無限に成長して行くと言う考えも、あるだろうが、段落、段階としての、ひとつの終着点として、自己の完成された世界と言うものがあり、その世界は、常に、先に出来上がっている物として存在しており、確かに、模索して新たな完成を目指し、探し、未来へ向かう時もあるかも知れないが、そんな時でも、我々は、只、それが見えていないだけで、実は、既に、その時から、その完成に向かって進んでおり、それが、はじめて踏み込んだ、新たな領域であったとしても、無限の内には、その完成された世界は、たどり着く以前から、既に出来上がっており、例えば、数式を解く以前からその答えが決まっている様に、正しい答えである完成された世界は、既にあり、そして、当然その世界からの導きと言うヒントや、力添えがあり、自己を拝む事により、その完成された自己の導きを他力として、今の自己の自力と合わせて向かう事で、その世界へと進んでいけると考える。
もちろん、その他力の中には、自分を応援してくれる、自己の世界の住人としての、友達や、仲間が居り、私が、時々陥る、自分が最も遅れていて、本当は、他の人達は、全ての答えを知っていて、ある意味、わざと、試練を与えたり、ある意味、励ましや、間違いに気づかせてくれるアドバイスをくれる人々達に囲まれて、歩んでいると言う事も、あながち、間違いでは、ないのだろうと、思われる。
であるので、今回、歩んでいる、統合失調症と言う精神疾患の私は、ある意味、最も、複雑で、最先端的、時を生きているとも言えるが、又が逆に、既に、その領域を既にマスターした次元の人びとが、健常者の、意識の中に既にいて、サポートしていてくれるお陰で、本来なら、厳しい社会の中で、その両方とも、こなさなければならないところを、皆さんの血税から支払われている、障害年金や足りない分を生活保護、その他、ヘルパー医者代にかかる費用を受けて、迷い、苦しみながらも、安泰に暮らせており、それらに報いる為にも、自分のペースではあるが、努力、精進し、感謝の念と、幸せを噛みしめ、愉快で、全ての人が幸福な世界を目指し、生きて行きたいと思うし、皆さんにも、自己の完成した世界が、いつでも既にある事を、述べ伝え、それに向かって自信を持って生きていく様、応援するべく、今回、このタイトルで書くように思いついたのだと、思います。
確かに納得の行かない事件や、体験をし、この世界に失望を隠せなかったが!
確かに通常の感覚、理性に従えば、この世は、悪の組織に牛耳られているとしか思えず、又、誰、何が敵で、味方かも分らない程、不可解、不可思議な経験や体験をし、この世に失望感を隠せず、失望感に浸って、こんな世界は滅びてしまえ!などと、思う時もあったし、その思いが、ぶり返す体験をこれからも、するかも知れない。しかし、失望感に浸っていながら、その感覚を半ば、楽しんでいる様にさえ感じる自分も又、あった様にさえ感じるのは、不思議だが、ひふみ神示に悪い事を通して良くなっていく事を心得なされよ!と言う一文もあり、心の片隅に、どんな事があっても、良い様にしか進まないと理解している自分が、いたのではないだろうかと、思っている。私は、過去世と言うものと、今の自分とは、本当の意味では、関係がないと思っている部分もある。なぜなら、もし、過去世がその人に関係していると考えるなら、つらい目に会っている人と言うのは、自業自得だと言う事に成り、今回の人生で行ってきたことの性で、味わっているならともかく、生まれる前が、祟っているとするなら、どんな目に会っていようが、放って置けばよいと言う論に成りかねず、そんな考えがはびこれば、冷たい愛の冷めた世界へと成ってしまうからである。業(ごう)や縁(えん)というのは、確かにあり、その人の人生に何らかの影響を与えている事は、あるだろうが、それらは、その肉が背負っているもので、魂がそれを背負っているとは、私は、思えない。それどころか、逆に、その様な、悪い業や、縁から導き出す為に、その肉に魂が、入ったと思っている。
私の、肉が、覚えていた、蘇ってくる記憶には、たとえば、よい方から言うと、キリストだった時の記憶などもあるし、その他、世界を救った神の様な存在だった様な記憶も蘇って来たが、たとえば、悪の大将だった様な記憶や、アリだった記憶も蘇ってきた事がある。
そして、この人生のおうづめに来て、通常の感覚では、生きて行けない、出来事や、経験に襲われている。
全く理解に苦しむ、立場に病院でも立たされたし、ユーチューブや、グーグル、その他、インターネット社会自体、信用出来ない状況下の中で、その中でしか、動きの取れない自分がおり、又、フェイスブックも、コントロール不能で、ある人の本心を信じ切らねば、その人が、変貌し、どう悪用されるかもわからない状況にある。
それを回避する様に、運命がそうさせているのか、携帯電話が壊れて全く一から出直さなければならない状況に陥っている。
今できる事といえば、このnoteで、思いを綴ったり、ブログをあげたりするぐらいだが、先ほどあげた動画などを、繰り返し見て、実践し、見える全ての事柄を、良いイメージに変えて行き、再び、人間と、社会を愛あふれる世界に映る様に自己内部の観念を塗り替え、悪い習慣を徐々に改めて行き、自分の世界を再統合して、これらの出来事を良い思い出に変換させていく事であると考えている。
先に意思と言う人間脳があり、それに上手く従う様に、徐々に習慣を変えていく様、動画では、教えているが、私の場合、その人間脳である意思自体が、普通の人の様に、理想の環境と言う物を、実は、私の場合持っていない。理想の環境を持っていないというのは、たとえば、金持ちに成ったり、部屋を、理想の環境にしたいと言う意味であるが、私が、理想の環境と思えるのは、自分の、動物脳が、人を疑わず、社会を疑わず、安心して暮らせる、社会であり、あるいは、自分の追求したいテーマに付いて考えて、それを広めて行ったり、作品を作って広めて行ったりすることであり、お金については、自分の貢献度として、自分に満足を得たい為に、成果として見える形が欲しいのであり、人間が出来る贅沢というのは、どれ程高い、自動車や、服や、貴金属を手に入れても、余り意味を感じない。
それよりは、自分が思ったように作品を仕上げ、それが、大きな価値を生み、手に入れた喜びの方が、よっぽど嬉しいし、それで手に入れた金で、たとえば、妻や、親、甥御、姪御に、安心を与える金として使える方が、うれしい。
私が、想像する帰還する世界では、今回のこの、いたたまれない入院劇は、本当に、ドラマの様なあるいは、登山の様な物で、その為、警察が、私と記念写真でも撮る様に、並んで写真を撮ったり、大声を出している時に、「そしたら、もっとがんばれ」などと言う一幕があったのではないかとも思えるのである。今後このドラマがどんな風に進んで行くのかも、わからず、実際恐い気さえするのであるが、この時代というのは、本来的には、進み過ぎてもおらず、適度に文明の遅れた世界であり、楽しい時代であるのだが、残念なことに、末期的と言うか、危機的というか、終盤を迎えており、ひふみ神示にある様に、一度、天地引き上げで、いわゆる、このまま、この時代と、文明のままで続けて行けないのか、それとも、前回の入院中に聞いた情報の様に、その時から2年半、今からだと一年半ほどしたら、遊んで暮らせる時代が来るのか、はたまた、全て、妄想の如く終わり、死にゆくのか、個人的には、釈迦が、一番弟子に語った様に、生きたいだけ生きられる世界である事を期待するが、今の様な、経済が、人のやる気をそぐ様な、社会のままなら、余り、嬉しくないと言う気持ちもある。