運命と宿命
昔、職場で仕事の合間に少しばかり、話をしていた時期がある。
その相手の話では、運命は変えられるが、宿命は宿る命だから変えられないが、運命は変えられると言うことだった。
ある時、私達の方は、職人の側で、私が、ある、日雇(ひやと)いさんの事を、指して、宿命だなあ。と言ったのだが、その同僚は、違う、なぜなら、変わろうと思えば、我々と同じ職人に成れるからだ。と言ったが、確かに、変えようと思えば、人生は、変える事が出来、違った人生を歩み始める事は、できるとは、思うが、実のところ、私の認識では、運命と言う物は、変えられる運命にある人が変えられるのであって、変えられない運命にある人は、変えられないと考えており、この時の、日雇い任夫(にんぷ。のつもりだが、漢字に自信がありません。)の人は、私達と同じ立場の側になる為の、縁も機会も、勇気もない等の、自分では変え難い、宿命を背負っている為、簡単には変えられず、その道もない、と言う意味で、そう言った訳ですが、別段、同僚に反論する意味もないので、反論しませんでしたが、強いて言うなら、宿命とは、言えないのなら、宿業であると言うのが、適切かも、知れませんが、それを含めて宿命と言う言葉が、私の中では、よくあてはまります。むしろ、男にうまれた、女に生まれた、と言う変えられないものの方を運命と言い、変え難き、道のりにある事を宿命と呼ぶ気もしますが、虫に生まれた、というのは、運命でもあると共に宿命でもあると言え、それは、その時の生においては、運命的に変えようがありませんが、その生を終えた後、人として生きる生を選択出来ないとは限らず、宿業によりて、定まると、思えるところが大きく、運命と宿命の意味が、その同僚とは逆であったと思います。言葉は、ある意味では、定義によって、定められると言えなくもありませんが、言霊と言われる様に、その音自体が持つ意味、波動があり、勝手に定義して乱用されるべきものではなく、諸々の国で言葉は違いますが、語源的つながりや、その国の国民固有の感性に深く関わっており、時を隔てても、言葉は変化しますが、本来的意味における正しさと言うものは、あると考えます。ただ、現在、使用されている、運命と言う言葉は、人生が辿る道のりや、その結果を意味しており、その意味においては、運命は変えられると、考える事によって、変えられる運命にある人の道を歩める訳ですので、基本的には、人生は変えられると言う姿勢、考えに立って、選択、行動、するべき方が、悔い無き人生を歩めると考えます。しかし、もがけば、もがくほどに、悪転する場合もあり、素直に、与えられた運命を、さからわず、受け入れて、自分のものと成るべく、消化して、生きると言う生き方も又、あるのだと、言う事も、知って置き、何を受け入れ、何を拒否するかを、選択するのもあるのかなあと、思いますが、最終的に言える事は、死と言う最後を迎えた時に、これが、私の運命であったと、決まる事であり、その時点から眺めれば、人生は、決まっていたと言えなくもないと言う事実であります。
ただ、今の時点においては、未確定、あるいは、不明であり、生き方、考え方、思い方、でどのように変わるか分からない点であり、永遠の中に生きる魂(知覚の正体)である事も考慮して、最善の生き方に心をはせて、希望を持ちつつ生きて生きたいものだと考えます。
くだらない、話を、最後までお読み頂きありがとうございました。