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神の物語 第一話



2020/9/22 noteを追加しました。

コロナは、最後の審判でもあり、このコロナの時代に生きる我々のほとんどは、天国か、好きなだけ生きられる、天国の門のキップを手にしている。
コロナは、太陽のコロナが、太陽の周りを覆う幕である事からも、分かる様に、時代の壁に突入した事を、表わしていますが、これは、釈迦が、預言した、56億7千万年後に下生し、地上天国を、作ると言った、弥勒(みろく)の到来を意味し、その根拠は、567の語呂合わせが、コロナと読め、この神の弥勒(ミロク)は、私が、まだ、弥勒(ミロク)の事を知らない時の、はるか昔に、私の意識に登場し、弥勒(ミロク)を知らなかった私は、神の魅力と言っていたのだろうと思っていましたが、弥勒(ミロク)を知ってからも、それについては、忘れていましたが、58歳の「後和(ごわ)さんに願いましては」の歳に、一挙に、開花し、様々な事が、分かる様に、成って来ました。
追伸。2024ー11月22日
みろくは、3・6であり、中身は45で、死後です。つまり、みろく降臨は、生きて死後を迎える事であり、4後である567のコロナに入った事で、みろく降臨が達成し、ここからが、地上天国への綱引きがはじまったのです。

第一話、「火の鳥と成り、神と成って、このコロナの世に宛てた文」

2020/9/14. 内容を大きく修正し、出来る限り、分かり安くしましたが、加筆し、深夜を回り、翌日と成っております。

 神は、始め、「非(ひ)」であった。「非」とは、「ある」のない世界で、ある意味、これが、真実の「ない」と言うものであった。

 次に神は、「あ」の掛け声と共に、この非から抜け出し、非取り(ひとり)をされ、吾(あ)と成った。「吾(あ)と」成ったので、非の後(あと)の割れ(われ)の吾(あ)は、吾(われ)でもあった。 つまり、最初は、吾自(あじ)だった。吾自(あじ)とは、吾(あ)の自分の事である。「あ」によって、非取り(ひとり)をされ、つまり、非ず(あらず)であるもの、すなわち、「ない」をあるに、変え、「非」を取って行かれたので、非取りであり、吾留自(あるじ)と成られた。吾留自(あるじ)とは、吾(あ)に留(とど)まる自(じ)であった。 しかし、吾留自(あるじ)は、「吾割れ」(あわれ)を、感じた。 それは、非取り(ひとり)の身で、その時、素型(すがた)つまり、「元の形」は、八身(やみ)であり、米(こめ)の字の様に、八つ(やっつ)の身であり、非(ひ)に開いた吾名(あな)で、不死吾名「ふしあな」つまり、節穴だったのである。 しかし、神は、非(ひ)の様な、不死前(ふしぜん)を気来(きらい)で、抜け出した不死義(ふしぎ)を透く(すく₌・好く)、神で、すなわち、不自然を嫌い、不思議を好まれる神でもあった。 八身(やみ)は、非渡身(ひとみ)と、不他身(ふたみ)と、三身(みみ)と、余身(よみ)と、御身(ごみ)と無津身(むつみ)と、奈名身(ななみ)がある、八身(やみ)の八つの身だった。 そして、これらを「吾・身」(あみ)と呼ぶ。 非十身(ひとみ)とは、十(と)ではない事を、感じる目で、不他身(ふたみ)とは、他の身のない身、三身(みみ)とは、三(さん)の身で、三(さん)は、ひとつの、完成された数(すう)で、その身を感じる身。余身(よみ)は、吾真理(あまり)の身で、吾(あ)の真理(しんり)の身であり、個である自分の余(よ)の身、御身(ごみ)とは、治める身である神の身、無津身(むつみ)とは、まず、津の説明をすると、液体である、しずくの、したたる汁(しる)を意味し、「し好く(しずく)の「した」「足る」を知る」で、すなわち、無津身は、無の、好きをし通し、その、足りるを知る身で、無の、好きの限界を感じ覚えた身のことであり、非と言う「ない」から生じたのは、その為である。奈名身(ななみ)は、奈「どうして、どうやって」の名まえの身。八身(やみ)は、非から抜け出した不死「節」の身の出所であると共に全体の吾多魔(あたま=頭)に当たり、多魔(たま)とは、多い魔(ま)を識し、すなわち、認識して、指揮する身。

 この、非取り(ひとり=一人)は、非の取りで、火の鳥であった。 非の取り(火の鳥)は、吾名(あな)=穴(あな)だったので、節(ふし)長=不死鳥(ふしちょう)だった。最初の、「節(ふし)=不死」の身で、取り(とり)の、鳥(とり)だったからである。 この非の鳥(火の鳥)は、非十身(ひとみ)と、三身(みみ)を使い、不他身(ふたみ)で進み、奈八身(なやみ)と、名身(なみ)を名奈身(ななみ)と八身(やみ)から、くり抜き、奈八身(なやみ)抜いて、奈八身(なやみ)と名身(なみ:波でもある)で、無限の名(な)をつくった。 ここで、ひとつ、注意したい事がある。それは、無限とは、限りが、「ない」のでは、けっしてない。無の限りを、無限と言い、無限を越すと、元に戻るのが、無限である。その為、 八身(やみ)が、無限を意味するのであるが、作りさえすれば、無限は、作っただけ、大きくなる。 無には、限りが、ないので、いくらでも、好きなだけ、作れば、それだけ、無に、つくった 無限は、大きく成るのである。 それで、新たに、奈八身(なやみ)と、津身(つみ)と、名身(なみ)の身が、出来た。 そして、「智」「血」「地」(ち)が、生まれ、三つの「ち」で、「みち」、未知、道、満ち、となり、名身(なみ)の、三つの「智」である「未智」「見智」「実智」の三つの「身智」(みち)と、奈八身(なやみ)の三つの「地」である「未地」「見地」「実地」(みち)の三つ「身地」(みち)の不他津(ふたつ)の「身」と「ち」が出来、不他津の「ち」は、智地「ちち」=父、非取り(ひとり)の場所を「意血」(いち)=位置及び、一。と呼ぶ。 そして、身智(みち)と、身地(みち)を、吾癒夢(あゆむ)つまり、吾(あ)を癒す(いやす)夢(ゆめ)を、歩身(ふみ)=踏みと言う。 

智名身(ちなみ)に、三つの「ち」を、治めるのが、御通三(おとおん)、その「ち」に参る(マイル)のが、御問う三(おとうさん)で、その道を三道(さんどう)と言う。 非十(ひと)は、十の、限界の戸で四方を囲って、田(た)にした。 そして、ここに、無限の名の主(あるじ)と成られた。 さて、始めの吾留自(あるじ)の身と、八身(やみ)の八つの身と、奈八身(なやみ)と、津身(つみ)、名身(なみ)の全部の身で、12の身となり、名八身(なやみ)津身(つみ)、で生じた血と地は、不他津(ふたつ)の「非十(ひと)」の田と成り、この、ふたつは、田田(ただ)と呼ばれ、この智を治める御吾身(おんあみ)を「吾身田(あみだ)した」父は、後に、阿弥陀(あみだ)と成る。 不死鳥に、智が、付いたのは、奈、つまり、「どうして」「どうすれば」、の八身(やみ)で、奈八身(なやみ=悩み)抜いた為である。又、朽ち(くち)により、吾自(あじ)を感じて、路(ロ=ろ)の満ち(みち)を知り、非渡身(ひとみ)で、渡るべきか、「非(ひ)」かを、感じて、意路(いろ)すなわち、路(ろ)の意味をしり、三身(みみ)すなわち、三(さん)の身で、名身(なみ=波である音)つまり、名のからだ、の意味を感じて、御(おん)つまり、「治める」を知り、八奈(はな)で荷負い(におい)を鍵別け(かぎわけ)華(はな)を知り、八田(はだ)すなわち、抜いた八身(やみ)で、異なるふたつが、交差する十(じゅう)=重(じゅう)を囲う身の、非十(ひと)すなわち、十=重(じゅう)に、非ら・じ(あらじ)、を感じて、八自(はじ)すなわち、「八身(やみ)の自分」を知り、非十(ひと)の五感(ごかん)を得たので、非取り(ひとり)から、一人(ひとり)日十理(ひとり)となって、可身(かみ)をえた。 そして、可身である神は、作った名に、位置を覚える、名位(ない)を付けた。 そして、作るとは、津来る(つくる)事、すなわち、津とは、「しずく、と成って、したたる、汁」で、「しずく」は、液体の事では、あるが、ここでは、「し」すなわち、「する事」を好く(すく)、し好く(しずく)と成って、「した」行為が、足りる(たりる)、した足る、を知る。事である。その津が来る事を、津来る(つくる)と言う。 ところで、神の身は、田で出来た可羅田(からだ)で、可とは、何でも可能にする可、羅は、吾身(あみ)である網、田は、重たい(おもたい)十(じゅう)を戸(と)で、囲って、非十(ひと)つまり、重たくたくない十(じゅう)の、十(じゅう)に、非ら・ず、非十(ひと)にした、田(た)で出来ている。そして、歩他身(不他身)は、歩田身(ふたみ)、歩多身(ふたみ)を得た。すなわち、12の身と、歩田身(ふたみ)、歩多身(ふたみ)で14の身と成った。この、14の身は、1(ひと)4(よ)の身で、人世(ひとよ)の身でも、あった。

又、この、14(ひとよ)の身を治める御吾身(おんあみ)でもあった。

 歩田身(ふたみ)は、重たい(おもたい)十(じゅう)を戸(と)で、囲って、非十(ひと)つまり、重たくたくない十(じゅう)の、十(じゅう)に、非ら・ず、非十(ひと)にした、田(た)を歩く身を、歩田身(ふたみ)、歩多身(ふたみ)は、多数の歩く身で、神が、共に歩まれるとは、人々の中に、御身(ごみ)である、治める身が、入っている。と言う事である。 なお、八身(やみ)は、闇(やみ)、病み(やみ)、止み(やみ)、でもあった。 しかし、神は、いつ(意津)も、つまり、意(い)のし好く(しずく)が、「した」「足る」を知る、すなわち、もう、「ある」を止めようと思っても、奈八身(なやみ)を、抱えておられた。

 それは、真(しん)であった。真とは、「しん」であり、「し」とは、しなさい、しろ、のように、何かを「する」事、と、死(し)である、「する」を「止める」事であった。 「ん」とは、考える時、鼻から発する「音」で、つまり、するか、止めるかを考える、宮である。そして、神の真とは、吾(あ)である吾(われ)に留まる「吾留(ある)」か、名の位置である、「名位(ない)」に成るか、どちらが、いいか、の名八身(なやみ)であった。それは、「ある」と言う真が、真に「ない」に成る、と言う矛盾に対する、名の八身(やみ)である、「闇」と「病み」を感じてしまうからである。なぜなら、神は、真理であり、又、不死全(ふしぜん)つまり、不自然を気来(きらい)で抜け出した神であり、嫌いであったからである。すなわち、あるものは、あるからである。

 そして、思われた、真にある、無限の「名位」の中から、大切に取って置き、そこに留まる存在の中に、世界を創ろうと。 ここで、注意して置きたいのは、存在は、確かに、「ある」と言う意味で、存在に、本当の意味での「ない」は、なく、「無い」であるところの、無(む)は、あるが、無は、全てが、「ある」状態であるために、区別がなくなり、認識できない状態を言い、けっして「ない」ではなく、むしろ、満ちた状態を言う。 又、存在は、「ある」ではあるが、もし、本当に、神が、名位のひとつである「存在」に、嫌気を指して、存在の「吾留(ある)自」=主(あるじ)を、御止めに成り、「存在」の名位(ない)に戻ると、「存在」は、名位(ない)に変る。変るとは、可割る(かわる)ことであり、可能の可の字を割る事で、可能を増やす事だが、変わる以上「存在」である名位(ない)も、変わるだろうが、神は、愛(あい)であり、全ての人に、意の智(いのち)を与えており、一見、不幸に、見える出来事の中にも、幸福の種が、植えられていて、真の意味での、不幸と言うものは、なく、ただ、その人の望みに合わせ、長い旅か、短い旅、苦しい旅か、楽しい旅、など、様々に、お与えに、成っている。 ところで、奈つまり、「どうして、どうやって」の八身(やみ)奈八身(なやみ)と名と、津身(つみ)を、この世に、同時に、持って来られた様なので、無は、六に残り、無は、基本は、六で、 三身(みみ)で、名身(なみ)を感じ、御(おん)す・なわ・ち、「治める」を知られたので、名身(なみ)である、名の身は、三(さん)であり、三位(さんみ)である。 その為、色は、基本、六で、色は、意六(いろ)の意味であった。基本の三原色と、その各間の3色の六色が、集まると、白であり、これは、光の色であり、光が吸収され、闇(やみ)に変ると、黒に成り、色は、白をあわせて、奈名(なな)の7色(なないろ)となる。全ての色は、この組み合わせと、時間による、変化の為の光沢等で、出来ている。 又、音(おん)の基本は、六(ろく)であり、「あいうえおん」の六つで、全て揃うと「し」に成る。そのため、母音である、三元音「あおん」と、「あ」と「お」の間の「う(有)」「お」と「ん」の間の「い(意)」と、「ん」と「あ」の間の「え(得)」の六音(ろくおん)で、全ては、これに、録音(六音)される。始めに、完了した「ん」の後(あと)に新たに驚き「あ!」と出て、「う(有)」と成り、完成の歓声(かんせい)の音(おん)「お!」と成り、「新た」を得て「得(え)」と成り、又、完了の音(おん)「ん」に戻り、全てが集まると、「し」と成り、ここから、子音が、生まれる。 子音(しおん)は、新たな「音(おん)」ではなく、御十(おと)であるところの、「音(おと)」である。音(おと)は、違いの交差(こうさ)する十(じゅう)である重(じゅう)なる重荷(おもに)に、非十(ひと)を知り、戸で囲って田(た)を作ると無に限りを付けて、「し」に戻り、人=非十(ひと)の三身(みみ)の耳に戻ると、「しーん」と成って、その旅の全てを、人の吾田真(あたま)にインプットする。非十であるところの、重荷を戸(と)で囲った人の吾田真(あたま)に インプットされると、位・ん・負丸津戸(いんふ○つと)すなわち、「位(くらい)を考える」事に負けるが勝ちであるところの丸が、嫌に成って勝ちに行く為に、負ける事に限界の戸(と)を設け、新たな智慧(ちえ)を得て、新たな門(もん)を開ける。 さて、物質は、元は、仏室(ぶっしつ)で、これに、魔(ま)が、加わり、様々な物質(仏質である、仏のし・智(7=しち)を、作って来たが、現在、このコロナの問題の原因である、ブラックホール「部羅付苦・掘る」(ぶらつく・ほる)すなわち、部分の「羅」とは、「網(あみ)のようなもの」を言うが、それが「付いた苦」とは、網である、法律や、ルール、固定概念などで、それが、嫌に成り、苦痛に成る事で、それを掘るとは、穴である「吾名(あな)」つまり、吾(あ)である吾(われ)の名(な)を開け、破る(やぶる)事で、そのダークマター「陀吾苦魔田―」(だ・あく・またー)すなわち、如来(にょらい)である吾(われ)の苦の魔(ま)に重荷(おもに)の十(じゅう)を戸で囲った田を伸ばして、光「非可理(ひかり)」すなわち、非(ひ)か、可(か)の理(り)をも吸い込んで、宇宙を新た(あらた)であるところの、吾羅田(あらた)すなわち、吾(われ)の羅(ら=網)のような非十(ひと)つまり、重荷の十は、非ら・ず(あらず)、人に知らせ、解決させるよう働いた。 そして、「すなわち」であるところの、素名㋻智(すなわち)とは、素(もと)の名の輪・和に○「丸」して、智慧に達する事であり、神は、今回、これを解決するために、人を導いた。 つまり、科学、数学、常識に、とらわれ過ぎた現在に飽き飽きした仏界の如来たちの、こらえに、こらえし、怒りの刃から免れるよう、私を導いたのであり、神も、如来も又、同じ者たちでもあるのだが、これが、悪い、あれが、悪い、これは、こういうものだ、あれは、こう言うモノだと決めてかかる、人間に、早よ、目を覚ませと言うご命令であるのである。

そして、私の今回の人生は、その幕開けを担うひとり、と成った。 今回の問題の最終課題は、神のアラミス「吾羅ミス」すなわち、吾羅の、わざと残した失敗であり、それは、固定概念(こていがいねん)の中でも、もっとも、大きな間違いであるところの、数学の初歩的なミスによる、数学の、量のない点で出来た線を、掛け合わせ、量のある、面(めん)の面積とする考え方で、本来、掛ける「×」は、「足す」を繰り返すものだった。 そして、割る「÷」は、素の数(かず)を、割る数(かず)に分ける事であり、割り切れない数(かず)は、余り、として残す事が、その意味の定義であり、又、0は、零(れい)で、霊(れい)を、丸く治める霊(れい)の器の事を意味し、人間の脳に備わっている脳天にある、霊の器である、霊の天皇、つまり、自我(じが)を司る、司令塔を意味し、これについては、以下のnoteに、載せて行くので、先を急ぐと、この数学の間違った考え方が、数学と科学を発展させたが、その考え方は、異質なモノ同士(どうし)を、掛けたり、割ったり、することで発展したのであるが、それには、訳があり、本来、この世は、空(くう)で、実態のないものである為に、霊的成長を遂げると、自由自在に、どの様な事でも、可能なのだが、これまでの科学の考え方で、誰もが、科学を、発展させ、科学の力で、共に、魔法と変わらぬ文明の利器を生み出し、便利で、豊かな生活を得させ、実りある生活を、させる為で有ったが、実に、急がねば成らない現実の問題がある。それは、宇宙が、ダークマターの暴れるブラックホールに飲み込まれ、タイムトラベルを行えば、もちろん、タイムトラベルをしなくても、地球が、太陽のコロナと共に、飲み込まれると言う事態が、別の時空で起きた事を、神、アラーによって、知らされている。アラーは、アラート「警告(けいこく)」アラーム「目覚まし時計」の語源であり、時の神、夢と言う不思議の神であると共に、どちらも、注意を、呼びかける事を意味する。 日本は、世界の子であり、外国は、皆、大人の様であるが、果たして、この科学の問題については、心得ているか、いないか不明であるのである。 アメリカは、宇宙人を既に、引き入れ、その技術を教わっている可能性が、あるが、私が受けた経験から、宇宙全体が、この間違いを犯しており、知能の低い宇宙人たちが、この間違いに気づかず教えている可能性が高く、もし、誤った方法で、既に、タイムトラベルを夢見て居るなら、あるいは、実践しているなら、0と、点と、無と、「ない」と、「なし」と、「ある」に付いての、正しい理解をしないと、飛んだ目に会う事を、知らしめる必要が、あるのです。 現にビッグバン宇宙の理解は、間違っており、「ない」ところに、揺らぎが発生する発想自体、真の「ない」を理解しておらず、「ない」ところに、揺らぎと言う「ある」は、発生しません。 また、以前、私も、存在に「ない」は、ないと、発表しましたが、この世の創造主の導きを受け、創造主である神が、存在に嫌気をさして、存在を「ない」に戻されたら、この世は、「ない」のです。 ですから、へたをすれば、宇宙規模の問題であり、宇宙の大帝王である、ゼウス「是有素」(ぜうす)すなわち、「これ、ず・ぼしで正しい有(ある)の素」様さへ、私に、依頼して来たのです。 どうやら、ギリシャのロダンの彫刻(ちょうこく)である、「考える人」が、私に当たるようです。 今回コロナが、発生したのも、ギリシャが素のオリンピックの年「2019年」です。 そして、コロナは、語呂合わせで、567で「ころな」であり、釈迦が預言した、56億7千万年後、下生して地上天国を開くとした、弥勒(ミロク)であり、神のミロクは、「見ろ、苦」であり、「身六苦」(みろく)でした。また、「身炉苦」(みろく)であり、すなわち、まず、「見ろ、苦」であり、見ろ!の苦、を克服したのであり、何を見ても苦にならないのが、 神の「見ろ、苦」です。次に「身六・苦」とは、身が、無(む)に成る苦です。次に、「身が、炉(ろ)に投げ込まれる苦」です。これは、霊の身すら、真の悪を行うなら、神の弥勒が、現われて、身を、炉(ろ)に投げ込むと言う、神の「お言葉」です。 コロナは、太陽の周りに巡らされた、幕(まく)であり、時代の壁(かべ)である最後の審判であり、永遠の命のキップを、手にしているのですが、 八身(やみ)にある、7つの身の余身(よみ)は、四身(しみ)でもあり、私身(しみ)で、私ロ意(しろい)が、その意味は、私の、口(くち)により、「朽ち」て、私路苦(しろく)なった、死路意(しろい)部分を修正し、私路意(しろい)私の路(みち)の意(意思・意図・意味)を、九美(くみ)、個羅(こら)である個の網(吾身)を正しく、紡ぎ、自然(しぜん)である、私全(しぜん)の、新しい地球である、「智求」を、幸福に、導く、担い手として、皆が、楽しく、働け、楽しく遊べる世界へと、変える、愛の希求=気球と希求(気球)の輪(わ)の実線=実践(じっせん)を通して、この大地「大智」が、天まで、昇り、万国が、万国にふさわしい、真の果実「可実」の実(ミ)と成るのを、待たれているのです。 この四身(しみ)は、三身(さんみ)である、三位一体を超えた、四位一体(よんみいったい)を目指す神・神々であり、父と子と、精霊と、民(多身)を目指しており、このコロナの時代を迎えた皆さんも、その、お一人です。 その為には、まず、この世界が、生まれ変わらなければ成りません。 まず、その神の企図(きと)を、早急に、伝えて、今までの、限界を作って来た固定概念、常識を、昇華させ、新しい科学と、不思議の調和した、新たな時代へと、歩んで行く必要が、あるのです。

たとえば、数学、科学で、地球の面積や、人口密度を計算し、食料問題や、エネルギーの枯渇、その他、勝手な推測による、がっかりする報道、医療による、病の心配、不死や、1000年、2000年と生きられないと思う思い込み、そう言った、限界を勝手に設けるおろかな考え、等々で、たとえば、キリストが、いくら、頑張っても、この、科学や、常識で、信じられなくなっている為に、奇跡を、起こそうと思っても、実現出来ないのが、現在です。

これらは、脳に蓄積された固定概念を、解放していけば、自ずと不死にも成れ、若返る可能性も、充分にあるのです。

たとえば、宇宙は、有限と言えば有限に見えるかも知れない。

しかし、実は、内へ、内へと、我々が、収縮し、その為、宇宙が膨張している様に思うだけであり、間違った理論で、いつか反転して、収縮するなどと、考えなければ、無限に宇宙は、膨張していけるのです。

「御す・なわ・ち」とは、「治めるとは、名輪の智、名和の智の事」、であり、つまり、とは、津真理の事であり、先ほどは、津を、限界を知る事の様に述べましたが、実は、津は、神の智慧の液=益の事であり、その真理(しんり)の意味が、あるのです。

このコロナの時代を歩む皆さんは、卒業生でもあるのですが、進学ほやほやの坊主(ぼうず)でもあるのです。

それは、私とて、同じですが、ここまで、引っ張ってきた身でもあるのです。

ですので、早急に、この、noteのシェアや、アピールのお手伝いを急ぐのですが、アメリカ等の数学者、科学者などにも、この、コロナの時代の企図が、伝わり、浸透する様、力を、貸して頂きく様、ご協力願いたいのです。

なお、 ブラックホールは、光を飲み込む事から、この宇宙の時間より早い時間軸を形成しているとわかり、タイムトラベルを行った後である事が、証明出来るハズである。

又、ブラックホールの数だけ、タイムトラベルをした事が、分かり、その数が、増えている事は、それだけの、行き来を繰り返してきた証拠であるが、このままタイムトラベルを繰り返し、又は、繰り返されば、現在の限界を抱えたままの思考パターンでは、現実に、宇宙が、「ない宇宙」つまり、「死の宇宙」に飲み込まれ、百億万年、死に込められると言う事実が確認されている報告を受けているのです。

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下noteは、以前に書いたものである為、古い内容と成っておりますが、おそらく、的を得た物と成っていると、思います。

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