同級生と恩師との再会@奈良町
昨年は真夏に家族全員で帰国したせいか、なかなか思うように動けずにいた。もちろん暑さのせいと子どもたちの希望を汲んで予定を立てる必要があったからだ。そのためか恩師と連絡を取れたのがずいぶんと遅くなってしまった上、お会いする当日に台風が来てしまい、奈良へ行くのを泣く泣く断念した。それにしても、昨年は台風に追いかけられてばかりいた。
そのことが念頭にあったため、今年は来てすぐに同級生と連絡を取り合い、恩師に連絡をしてもらうよう頼んでおいた。運良く会いたかった同級生ふたりと恩師とで奈良で会うことが叶ったのである。
幼稚園卒業間近まで大阪の箕面に住んでいたが、卒園手前で奈良へ引っ越しをし、そこから大学卒業までずっと奈良で暮らしていた。大阪生まれ、といっても日本で一番長く住んだのは奈良の学園前である。中高一貫の学校に通っていたため、この恩師には本当にお世話になった。この人なくして、今の私はおそらくない、そのくらい影響を受けた方なのである。
まず、体育の先生でバスケットボール部の顧問だったこと。学校の伝統行事として中学3年生のときに海で3キロの遠泳というものが課せられており、私は幼稚園のときのトラウマから見事に金槌のままだった。水泳以外は運動は得意な方だったので水泳の時間に飛び込んでそのまま息が上がるまで浮かんで立ち上がった瞬間に「おまえ、なにふざけてんねん!」とクラスメートに呆れられた。「ちゃうって!ほんまに泳げへんの!」と反論したが本気だと思われず、足がやたらと速かった私は誰からの信用も得られずに終わった。ただ、その体育の先生だった恩師はこう言った。
「バスケットの練習のあとに個人レッスンしてあげましょう!」
そんなわけで暑い真夏に体育館でバスケットの練習をやったあとで、それはもう嫌いな水泳の特訓を受けていた。なぜか学年で平泳ができないのは私ともうひとりこれまた足の速い野球部の男子1名だった。だからふたりで特訓していた、というわけ。「お前ら、なんで足速いのに泳がれへんねん」とクラスメートからは揶揄われていたが足の速さと泳げるかどうかはなんの関係もない。
結局、私は海で無事に3キロを泳ぎきったのだが気の毒なことにもうひとりの男子は泳がないまま遠泳行事は幕を閉じた。彼は根っからの陸の動物なのだろう。めちゃくちゃよくわかる。そしていまだに私はあのときに覚えた平泳しかできない。クロールは息継ぎをしたら沈むし、背泳ぎに至っては一瞬だけ浮くことができる程度だ。でも多分、練習したらできるようにはなるのだろう。
それから、この恩師、体育の先生だったのに英語の先生よりはるかに英語が達者だった。そして自宅で友人のアメリカ人を招いて会話教室のようなものを定期的に開いていた。
「英語くらい話せたほうがいいわよ」
そんなことを言って先生は私と私の母をその会話教室に誘ったのである。外国語で会話をする、ということをそこで覚え、先生の家に大量に積まれていた映画の録画ビデオを借り出したのが高校3年生から大学生の頃だったろうか。
そこで借りたビデオの中にヴィム・ヴェンダースの『ベルリン天使の詩』があった。そのほかにも『ポンヌフの恋人』や『存在の耐えられない軽さ』なんかがあったようにうっすらと記憶している。とにかく映画を山ほど観るきっかけをくれたのも恩師だった。
それともうひとつ。高校を卒業してまもなく、先生はこう言った。
「知人が行けなくなってしまってキャンセルもできない旅券があるんだけど、あなた行かない?」
カリフォルニア旅行へのお誘いだった。両親も恩師と一緒なら安心と卒業祝いも兼ねて快く私を送り出してくれた。初めての海外。飛行機を降りた瞬間に空気が違うのを感じてゾクゾクしたのをよく覚えている。
これがサンフランシスコなのか!
後から思えば、あの「こことは違うどこか」「異国の空気」のようなものに触れたのがきっかけで日本から出ることに抵抗がなくなったような気がする。本当にいいときにいい人に出会えているものだと自分でも感心してしまう。
奈良町の静かなカフェで同級生ふたりと恩師を囲んで、懐かしい話を山ほどした。本当にいい中学・高校生活を送れたんだな、としみじみした。