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「ハート」の声と「思考」の声

「ハートの声」と「思考の声」

そんな言葉を聞いたことがあるだろうか?



ハートが沸き起こるままに

心が望むままに

行動してあげる


それはなんて甘美で惹かれる言葉だろうか




でもね

この「ハートの声」は「思考の声」と混同されやすい



それは自分では気づかないのだ




なぜなら


「思考の声」と「ハートの声」

その違いは微細だからだ




「ハートの声」


かと思ったら


実は「思考の声」



なんてこともざらにある





楽な方がハートとは限らない

心地が良い方がハートの声とは限らない

今瞬間的に感じてるのが心(ハート)の声とは限らない




せっかく心から沸き起こり
自らハートを開こうとしたものを
閉じてしまう、なんて勿体ないなぁ

なんてエゴを持つわたしは思うんだ



人に対して然り

自分に対して然り




決めた、あとにくる
思考の誘惑



それはさも「ハートからの声に聴こえるかのような思考」なのだ



そう


心から沸き起こりそう行動すると「決めた」のに

数日経つとまた新たな情報が入り

せっかく心から沸き起こり「決めた」ことを「やめて」しまうんだ



「お金がない」

「時間がない」

「新しく出会ったこっちの方がいいいかも」

「友達や家族に話したらなんかいい顔しなかった」



そんな思考の誘惑が現れ



「タイミング時じゃなかった」とか言い出す



よくあることだけど






私はこれって勿体無い


と思うのだ




当たり前だ、だって情報など山ほどこの世界に溢れている


でも「その瞬間に感じたハートからの沸き起こり」を無視してしまうのだ



それは「ハートの声」じゃない「思考の声」だ





「タイミングじゃない」というのは

「思考の誘惑によって自分で変えてしまうこと」ではない





乗るはずの船が出たけど雨でUターンした(実際にあった)

とか

予定していたけれど、中止になってしまった

とか


自分ではどうにもこうにもできない不可抗力な事態で
できなくなってしまうことだ




「思考の声」は「さもハートからの声」のようにやってくるよ


「思考」は安定するように、変化をしないことを望むのだから



こう書くと「思考」が悪者のようだが

そんなことは決してない



さっき書いたように

危険を察知したり

安定するよう守ってくれるのは「思考」なのだから



とはいえ

現代の人々は「基本思考の世界で生きている」


それはもう思考が全て正しいかのように



ハートから沸き起こり、決めたのなら


そんな「思考の誘惑」に囚われず生きて生きたいよね




ハートから沸き起こるものに従い生きると

出来事も行動するのだからもちろんだけど


自分自身がどんどんと心地よくなってゆく



私はそんな生き方をして生きたい



そしてハートから沸き起こるままに生きる人々が増えたら

そんなのサイコーじゃないか、と思う




思考の誘惑に囚われるな



そう思うんだ


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asobigami Zahiraさち
こちらのサポートは、創作活動につながるものへと循環させていただきます◎展示会や心震える創造に繫る素材や場づくりなど◎へと広げてゆけたらと思います