見出し画像

【ネタバレあり】MCUスパイディの昨日と今日と明日【NWH感想】

人生で一番観たスパイダーマン映画はどれかと訊かれれば、おそらく『ホームカミング』か『ファー・フロム・ホーム』のどちらかと答えることになる。ライミ版もアメスパも定期的に見返しているが、それを上回る頻度でMCU版を鑑賞している自覚がある。作品を取り巻く巨大な世界観など前シリーズにない魅力は数多い。しかし僕がこのシリーズをヘビロテする最も大きな理由はかなり後ろ向きで、それはMCU版の「悲しみの少なさ」にある。

ライミ版の誕生以降、スパイダーマン映画の歴史はピーター苦悩の歴史でもあった。ベンおじさんの死と「大いなる責任」、ヒーローと青春のトレードオフ、友情の危機・・・、爽やかなファイトと葛藤に満ちた私生活の二面性が常に物語に付随してきた。またヴィランにもバートン映画的な「怪人の悲哀」が伴い、総じて悲劇を内包したものが主立っていた。

ところがMCUでは、こうした懊悩はかなり鳴りを潜める。舞台はスパイダーマンが唯一無二のスーパーヒーローではない世界。ピーターは己の未熟さや私生活に向き合っていくだけの余裕があった。敵は盗人が板について久しいバルチャーに自演怪人ミステリオ、石好き宇宙人と皆振り切ってるのでこの辺りも後腐れが少ない。こういった「悲しみの少なさ」は繰り返し視聴するのにはもってこいの作風だ。何回観たってオットーが沈んだりグウェンが死ぬのはつらいのである。

こういった悲しみをおそらく意図的に軽減してきたであろうMCU製作陣が繰り出した『NWH』の一手が、ライミ、アメスパの「救済」だった。これはもう本当に世代人としては泣き所のオンパレード。対話を経て一時は共闘にまで至ったフリント。初めてのティータイムまで時間を遡ったかのようなオットーの無邪気な表情。マックスから語られる彼なりのスパイダーマン像の解釈には唸らされ、窮地のMJを救い自らも救われたであろうアンドリューピーターの泣き顔は忘れられない。本編からいくばくかの時間を経て現れた二人のピーターもまた救いを得ていたのだ。

一方まるで救いのないノーマン・オズボーンことグリーン・ゴブリン。予告ではあまりクローズアップされなかったのでまさかのラスボスには驚きを禁じ得なかった。仮面よりウィレム・デフォーの顔の方がよっぽどコワイとスタッフも気付いたのかコミックを意識した装いに、トビ―ピーターをステゴロで圧倒した1作目のインファイト性能を更に伸ばしたアクションで文句なしの暴れっぷり。パワーボムでフロア全部抜きとか化け物すぎる。ひたすらに邪悪な存在であり「振り切った悪党」という意味では、MCUスパイディのメインヴィランの系譜に相応しいとも言える。繰り返すがノーマンは気の毒。

そのゴブリンが、これまでなんとかやってきたMCUピーターにもたらした壮絶な悲劇。メイおばさんの死、そして記憶のリセットによってピーターが守るべき「もう一つの生活」をすべて失うというあまりにも重い代償。スターク・インダストリーズの後ろ盾も失い、手製のスーツで夜のNYを駆けるゼロからのスタート。『ノー・ウェイ・ホーム』の意味を嫌というほど実感させられる。話は逸れるが最近作の『チェンソーマン』においても似た形で一区切りをつけていたのは注目すべき点かもしれない。

しかしこれは新たなスタートだ。パワーを手に入れ、家族を失い、友や恋人には手が届きそうで届かない。ライミ版も、アメスパでも見てきた光景だ。しかしまだこのピーターはやることがある。ニューヨーカーの心を掴まなくてはならない。鳴りやまない声援を送り、時には加勢したり庇ったり代役を務めてきたこの街とひとつになっていかなければならない。街にはどう考えても生き残ってるキングピンがいるし、知り合った弁護士はヌンチャクを振り回すヘルズ・キッチンの悪魔だ。スパイダーマンの未来を示すピースは十分揃っているのである。背負った悲しみは大きいが、これからのピーターの活躍を予感させる素晴らしいエンディングだった。これからが本当に、本当に楽しみだ。


いいなと思ったら応援しよう!