KLIS ADVENT CARENDER
はじめに
Klis アドカレ12月18日の記事です。私はこれが初めてのNOTE記事で、あんまり長く文章を書くのに慣れていないので拙い部分があったらすみません。
あと7500字くらいあります。糞長いです。多分15分くらい読むのにかかるかな。読むの好きな人は楽しんでください。
なげーよ!って人は前半部分は私の友達くらいじゃないとあんまり面白くないと思うので浪人~大学編あたりまで飛ばしてください。そこが一番読んでほしいので。
23歳になったので人生を振り返ってみる
12月どうですか?忙しいですか?テスト大変ですか?
私は筑波大学に入ってからクリスマスというクリスマスを味わっていません。テスト期間つらひ😣オヨヨヨ
そしてクリスマス1週間前の今日はそう。ざわたの誕生日です。みんな今年も一年ありがとう祝ってくれてありがとう。ワーワーパチパチ👏
でもざわた的にはあんまり嬉しくない。おかしい。去年までは会う人会う人に「12月18日誕生日なんだよね」って話を1ヶ月前も前からしてたのに。
小学生の頃は「誕生日の日は国を上げて祝ってほしい」って思ってたし、「誕生日の日は小学校に行くまでの道で全ての人が拍手してくれる花道ができてたらいいのに」と本気で思ってたのに…
やっぱ23歳ってなんか嫌じゃないですか?23って(にーさん)って読めて、「あー私はもう”お兄さん”なんだ」って感じしませんか?
ってかざわた検定5級未満の方は「なぜ学群3年生なのに23歳なの?」って思うかも。これまでの人生、ざわた史を大まかに振り返ります。
幼少期(0歳~6歳)
ちょくちょく画像とか音楽とかも貼ります。
これは私が5歳の時どこかの国でなんか食べてますね。この頃から可愛かったんです。私は。今も超かわいいんですけど。
あと、ちょくちょくBGM代わりに好きな音楽も載せようかな。これはスキマスイッチのボクノートで「ドラえもんのび太の恐竜2006」の主題歌、ずっと好きな曲で姉がサプライズで流してくれたり、思い入れのある曲です。
出生
まぁ小っちゃいころの話聞いてもそんなに面白くないと思うので手短に。
大阪の病院で生まれ奈良で育ちます(記憶が正しければ)生まれたとき4000g弱あったらしい。あと、予定日より少し遅くてあと一日遅かったら帝王切開だったらしいです。このときからギリギリの癖があるみたいですね。
孤独幼稚園時代
両親が旅行好きで何度か海外に行ってたけどあんまり覚えていません。なんなら昔から内気で家で寝てるのが好きな子だった気がします。
両親が働いていて姉も6歳離れていたので一人で遊ぶことが多く、一人人生ゲームや、一人神経衰弱をしてたかな。あと、幼稚園で過ごすのはなんか楽しくなかったです。幼稚園時代から毎日のように遅刻していました。あとこのころ姉の影響でたまごっちをやっていたのですが、幼稚園に入ってちゃんと育てられなくなり悲しかったです。
このころからプライドの化け物の片鱗があった
親や親族からは「賢いわね~」と言われて育ったのですが、これあんまり良くなかったと思います。後述しますが、3歳の頃から簡易的な個人塾に入り、確かに人より勉強が出来るようになります。また、人見知りな性格が災いして周囲からは「大人しくて偉い子」という評価が与えられます。
一人が好き×賢いと言われ育つ×妙な数的評価=プライドの化物
この頃から「ぽれはぽまえらとは違うんだ」という恐ろしい感情を持ち出します。皆さんも育児の際は子供の努力や頑張りを褒めてあげてください。
小学校時代(7~12歳)この頃から歯車が狂う
遅刻はするけど真面目な子でした。でも変な子だったと思います。(今もそうかも)毎週のドラえもんとポケモンが何より楽しみで、あと、Eテレキッズでした。習い事は3歳~小3まで地域の個人塾みたいなところに(共働きが故に半分預ける意味もあったかな)、小4~小6まで中学受験専門塾に、幼稚園から小5までスイミングスクールに行ってました。スイミングは上手さごとにワッペンで練習分けされてたんですが、同じワッペンの子が気づけば年下ばかりで嫌になって辞めました。
あと学校ではシンナーキャラでした。
貴方のインターネットはどこから?
私は姉に「ポケモンでコンビニ」という動画を教えて貰って、そこからうごメモ、ゆっくり実況、東方と・・・YouTubeキッズになりました。多分小4か小5このころは広告なんて無いし、YouTubeでお金稼ぐ人もいなくて古き良き時代でした。あとは2ちゃんまとめスレとか見てましたね。まだTwitterはやってなかったな。多分中学からだったかな。
だるい中学受験
中学受験をすることになったんですけど、したくなかったです。勉強は嫌いじゃないけど、なんか先生や親に怒られないために頑張ってた気がします。でも、なんのために勉強してるのか、私立の中学に行ったら何が良いのかよくわかりませんでした。もし私に子ども生まれたらちゃんと説明してあげよう。😌
結局宿題途中からやらなくなりました。だって量多くて終わんないんだもん(普通はその量をこなすくらいの勉強をするべきなんだろうけど)。それに親に隠れて中学受験本番半月前とかでもWiiをやってました。この頃の私は全てのコースで最大評価の★3を出すことにお熱でした。
でも、上記の通り幼稚園から個人塾にいってたのもあってある程度できる子でした。結果あんまり努力してなかったけど第一志望(奈良県の帝塚山中学)に合格します。これが地獄の始まりでした。
中学時代(13~15歳)超絶究極暗黒期
結果から言うと中学は3年間成績がドベ(関西弁で最下位のこと)で、成績不振のために高校にあげてもらえませんでした。高校に上げられない人は年に一人出るか出ないからしいので私は逸材だったわけですね。なんでそこまで成績不振になったのかを書きます。
努力の仕方がわからない
簡単に言うと小学生で努力しないまま合格したため、努力の仕方が分からなかったのです。中学校から英語が始まったのですが、これが3年間5段階評価で1でした。英語って基本的に暗記教科だと思うのですが、これが本当にできなかった。単語が全く覚えられなかった。あと教員がくそでした。周りの子は中学受験で努力してきてるので英単語の暗記くらいわけないのですが、私は本当にできなかった。
成功者の姉と・・・
中2で姉が東京大学に1浪で受かります。ちなみに父は京大を出ていたり、(叔父さん)母の兄弟も東大卒や慶應卒などで、大学って自然とそういうところしかないと思っていました。姉の合格後、母親に「あなたもお姉ちゃんよりIQが高かったからいけるよ。」この言葉を真に受けた私は「そうかも」と思って謎のプライドを持ちます。これが後にコンプになるとも知らずに。
居場所が無い地獄
中二の中ごろになると流石に成績がひどいので先生や親から強く勉強するように言われますが、短期間で1年半の周囲とのギャップを埋められるはずがありません。とにかくしんどかった。定期テストは普通に12科目/12科目とか赤点だったし、夏休みの課題は一生懸命やっているつもりでも全く終わらないし(出来る子の20pと出来ない子の20pは倍以上の差があるんですね)、成績酷くて周りからは頭悪い奴として、イジメではないけど相手にされないというか、見下されるというか・・・。とにかく学校にも塾にも家にも居場所が無かったです。:_:カワイソウニ
オタク
このころの私は逃げるように2次元に走ります。2次元友達は比較的優しかったな。まぁ、傍から見れば成績が良くないオタク集団だったと思うけど。この頃は本当に東方が好きで、特に東方ボーカル(同人の二次創作)が好きでした。
当然多くの曲はカラオケにも無いし、布教しようにも理解者は少ないし、「どんな音楽聞いてるの?」って言われても答えられなかったけど、本当に良かった。今は離れてしまったけど、これらのコンテンツが無かったら今のざわたは無かったかも。やっぱりアマチュアでも、稼げなくても、芸術がある意味は存在していると思います。
日生学園(高校)へ
希望とプライドに溢れていた1年生(一枚目)理想と現実の乖離、居場所がなくなった2年生(二枚目)三年生は・・・
いよいよ3年生になったのですが、夏ごろに高校に上げてもらえないことが勧告されます。家でも毎日親と喧嘩していて(そりゃ親も折角高い金出して私立の中高一貫に行かせたのにね)、お互いに疲弊した結果母から全寮制の高校に行くことを勧められます。私も家にいたくなかったし丁度良かった。偏差値42の為、テストは超簡単だったし、なんなら筆記は形式だけで落とされた人はいなかったんじゃないかなぁ。面接は「寮生活頑張れますか?」と聞かれて「はい」と答えたら受かりました。
高校浪人時代(16-20歳)
なんかめんどくなってきたし、高校と浪人は纏めて書きます。読んでる方もお疲れでしょう。お茶でも飲んでください。
高校はトイレを素手で洗わせるで有名な日生学園改め桜丘高校でした。
便器を素手で洗うことはなかったけど。私にとっては天国?
トイレを素手で洗う事も坊主にすることもなかったです。でも、学校の敷地を一歩でも出たら生徒指導だったり、15人一部屋だったり、荷物検査で筆箱の中まで見られたり、毎朝6時半に起きて外周走らされたり色々ありましたが、書いてるときりがないのでやめます。
なんだかんだ高校生活楽しかったです。戻りたくはないけど!プライバシーは無いけど、いつでもすぐそばに友達がいて、すごく生き生きとしてたと思います。閉鎖空間の小社会で小競り合いや人間関係だるかったし、いまだに連絡とってる人はほぼいないけど!
永い大学受験、Klisを第一志望に(時間が無い方はここから読むことをお勧めします。)
話しを受験にします。やっと筑波大学を中心に話が出来る。
高校三年間部活やサークルや遊びに熱中してあんまり勉強しませんでした。また、高2の文理選択で、ベ〇ッセの進路指導紙に理系の将来は研究者や技術職って書いてあってなんか嫌で文系にしました。理系の勉強についていけたかはさておき、普通に後悔しました。経済学部も文学部も法学部も行きたくなかったからです。潰れろベネッセ!
そこで筑波大学情報学群知識情報・図書館学類を見つけます。このころからメディア学に興味があったり、いろんな人がいて面白そうだし、卒論テーマも面白くて・・・あと、ここの前期がセンターのボーダー的にも筑波の中でも一番入りやすそうでした。(結局それが大きいかも)しかし結局英弱の文系に人権は無く、結果全落ち浪人します。
がんば浪人(n=1)北九州予備校東京校へ
予備校は北九州予備校東京校を選びました。理由としては強制的に勉強する環境に身を置きたかった。東京校のチューターの方が接客時良かった。日生学園で生きてこれたなら北予備でも行けるだろうと思ったためです。
グーグルマップの評価はボロクソだけど、私は本気でこの時の決断良かったなと思います。あと、東京に二年間いて、あまり自分は都会の喧騒と満員電車向いてないなとわかったのもすごく良かったです。あと、多分人生で一番頑張った二年間だったと思います。
一浪の成績はずっと右肩上がりでした。というか、1浪して模試で初めてE以外の判定を見たのでガチでこの画像みたいになってました。
ただ、まぁそんな簡単に成績伸びたらみんな浪人して高学歴なるんです。一浪、最後のセンター試験はこれまでの模試の最低点を叩き出します。(6割ちょいかな)ただ、現役の時より少し難化してたのと、一部の教科は良かったので、高崎経済大学(中期)には受かります。むしろそこしか受からなかったんですけど、全落ち回避できて本当にあの時は嬉しかったです。
1浪の前期にセンターE判定なのにKlisを受けた話
当然親には大反対されました。ってかこれまでずっと親の期待とか、色んなものを踏みにじって生きてますね私。
それでも、Klisの前期が最後なので受けました。
記憶が正しければ三波先生あたりが試験官やってて、終わった後落ちたことは確信していたので、「成績開示っていつになりますか?記念受験なので」といった気がします。流石に記念受験とは言ってないかも?言ったかも?
がんば浪人(n=2)
高崎経済大学に受かって行けばよかったのですが、絶対もっと伸びると思い2浪をお願いしました。(学歴コンプもあったね)やっぱりセンターの結果に満足していませんでした。こんな理由で2浪を許して貰えて、やはり恵まれているなぁと思います。
北大総合に向けて
このときKlisの前期入試は廃止されていました。(私はKlis前期廃止に強く反対しています。)まぁそれなら北大になんとなく行くことを選びました。4年間北海道で過ごすのもいいなぁと思っていました。
学部は総合文系を目指していましたが、直前になって法学にしました。理由としては総合で入って得することってあんま無くない?って思ってしまったからです。筑波の総合は考えなかったの?と聞かれますが、まぁ・・・はい・・・どうせ総合なら北大が良いと僕は思ってました。(筑波総合を批判する意図はありません。個人の考えです。)
1浪と2浪違い
1浪も2浪もどっちもしんどかったけど、基本的に浪人生活楽しかったです。目標に向かって努力している自己肯定感や、仲間がいる事、頑張ればそれだけ結果が見えてくること、先生も面白い人がいたってのがあるかな。それでも、流石に2浪はしんどかったし、限界を感じました。辛くて涙が出る事もあった気がします。2浪の終わりには「何があってももういい加減やめよう。」と思っていました。
共テと前期
共テの結果は8割ありました。実は姉も終盤勉強に協力してくれて最後の2ヵ月で模試の成績が100点弱上がったと思います。
家族や予備校のサポートもあり迎えた前期試験、やっと解放されるという気持ちもありました。その結果・・・前期北大法学部落ちました。普通に本番解いて手ごたえが無かったです。気持ちばかり焦って集中力も無かったと思います。帰りの新千歳空港につくころには「私はここに呼ばれてない」ってなんとなく思いました。
後期のKlis
3月6日、北大の落第通知が届きます。わかってはいたけど、この2年間出来ることをやり切ったと思っていたので1日だけへこんで、小論文の勉強を本格的に始めました。この立ち直りも姉のサポートが大きかったです。
後期入試については1年生の時の知識大説(27:40~)語ってます。長々と受験の話をしてごめん。チーチー
大学に入って(21-22)本にも図書館にもプログラミングにも興味が薄い人間がKlisに入って幸せになれる?
脈絡なく大好きな坂本真綾さんのクリスマス曲を流します。いつかこんなクリスマスを過ごしたいなぁ。
”きっと来年もまた色々あるけど あたしたちなら大丈夫 幸せになろうよ”
ってラストの歌詞が好きです。
さて、幸せになれるの?なれます。たぶん。でもちょっと悩みます。
私自身本や図書館、は良いものだと思いますが、年間読書冊数は活字は片手で数えられる程度、漫画も最近あんまり読めてません。ってか活字苦手です。図書館で勉強することはあるけど、本借りたこと無いです。(これはあんまり良くないと思う。)
こんなにたらたらと文章書いてるのに?書くのは楽しいんですけど、読むの遅いし、読むのに気力が要ります。
プログラミングもできるようになりたいと思いながら全然できないです。ってか、プログラミングが出来る事じゃなくて、プログラミングで何をしたいかを考えるのが大事だと最近思います。
Klisどんな人が多い?
周りを見ると、やっぱり本が好きな人や図書館が好きな人、プログラミングで何か作ってる人は生き生きしてるように見えます。私から見ると変わった人が多いと思います。
でもね、彼らには彼らの苦悩があるはず、というのもKlisは本当にやってる範囲広いんですね。多分、図書館に興味があってもアーカイブには興味が無かったり、コレクションには興味があっても歴史には興味なかったり・・・それこそ、デザインの授業はできても図書館は興味ない人とか。そういう幅広く授業がある分苦痛もあるかな。
でも、やりたいことわからない人にKlis本当にお勧めです。だいたいの事はできるし、なにか好きな事が見つけられます。”好きなことをみつけよう”ってF欄のキャッチコピーみたいですけど、でも本当です。その分やりたくないこともやんないとだけど。
その分、色んな事に好奇心がある人、吸収力、当事者意識がある人が良いのかなと思います。
知識科学主専攻ってどうなの?
結構Twitter見てると私が2年生の時「知識科学やめとけ」みたいな声が多かったです。でもね、知識科学は本当に面白い授業有ります。好きな事、趣味を題材に研究できる。まぁやめとけと言われる理由もなんとなくわかるかな。何でもできる分万遍なくやらされるし、面倒なことも多いです。でも、思ってたほど悪いところじゃないです。いまのとこはね。
大学で得られたもの(エピローグ)
得られたもの・・・って纏めるとなんか偉そうですね。でも、なんだかんだ大学って素晴らしい。筑波大学サイコー!堕嫌害苦(だいがく)とかツイートするけど。Klisサイコー!人生苦しいってよくツイートするけど。
文サ連の委員長と大説の委員長を頑張った2年生
まあ今思うと何を頑張ったんだっけって思ってしまうけど、あの時はあの時なりに頑張ってた。まぁこれ書くともう長すぎになっちゃうので見出しだけでやめときます。一つだけ言いたいのはどっちもやりたくてやったし、やって良かったと心から思います。文サはちょっと思うところがいろいろあるけど、決してガクチカなんかの為とかじゃなく、貴重な経験だったと思います。
苦しい3年
3年生、人生の岐路に立たされるのがしんどかった。今もしんどいけど。みんなに置いてかれてます。でも、自分の目の前のことと、頑張れる範囲で頑張れることを頑張るしかないのかも。まだ、答えは見つかってません。来年の私のアドカレの宿題にします。どうなりましたか?今は落ち着いてますか?
おわりに
私自身7500字も書くと思ってませんでした。端折ったつもりでも結構人生について書けるんですね。自分的にも自己分析に繋がって良かったです。今年もあと少しですね。全部読んだ人はすごい!ざわた検定3級あげちゃいます。
全部でも多少でも読んだ人は感想でもダメ出しでもいいので教えてね!またね!
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