ラジオの美学なんですけど
問うてばかりではいけない、こちらも答えなければ。
ー ラジオはリスナーさんとのお気持ちの受け渡しの場だ
と私はラジオで何度かそんな話をしたことがある。
「ラジオ」に限らず。
話を作るときの基本的構造は起承転結だ。
これを枠にして上手に己の話の肉付けをしていけば、ある程度のなんちゃってラジオ風音声コンテンツなんてもんは誰にだって作れる。
オープニングで枕を話すにしても、聴き手に「みなさんはどうですか?」と投げかけることは、話の導入の「起」としてはとても手っ取り早いことだ。
しかし、冒頭で何かについて問いを投げかけるだけがラジオの作り方の定石ではないだろう。
私はラジオの場にリスナーさんとの何かしらの気持ちの受け渡しがなければ、私自身がラジオをやれていると言う実感と言うか、充実感のようなものが湧いてこない。そんな面倒臭い男なのだ。
「ラジオって古いよね。」
「そんなに毎日のように作ってて他にやることないんですか。」
「素人がやってても反応無いからつまんないよね。」
過去、そんな心無い言葉を言われたこともあった。
何度も何度も番組を作っていく過程で、どうしたら自分が理想とするものを形作れるのか、興味の無い人もやっている人間も楽しめるものが作れるのか、お気持ちの受け渡しが出来る場所を作れるのか、あえて基本の骨格を崩すのも良いのではないか。
なんてことを、あれやこれやと考えて作るようになった。勿論、聴いている人にあわせながら。
そんな感じで今日の対戦相手によって柔軟に態度を変えて喋り続けてみたら、逆に、ワンパターンで問いを投げ続けるだけの番組よりも「おっ、こいつは何かリアクションしたら答えてくるぞ。」と思われるんじゃないの。
そこにお気持ちの受け渡し、相互のやり取りが生まれるんじゃないの。
あれ、今日は何となく空振りしてますかね。私。
なんてこともあったりなかったり、あれこれと模索しながら、作ってみたり、みなかったりとやっている最中だ。
そんな中、また大好きなラジオ番組が最終回を迎えた。土曜日のお昼に放送していた久米宏さんのラジオだ。
久米宏 ラジオなんですけど│TBSラジオ│2020/06/27/土 13:00-14:55 http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20200627130000 #radiko
この日のゲストである伊集院光さんと「ラジオ」について熱く語っていた中で分析されていた「ラジオパーソナリティーとリスナーの関係」について
「ラジオってけっこう考えながら話しているし、聴いている人も考えているとしたら、送り手と受け手はかなり濃い縁(えにし)があって、赤い糸があるんじゃないか。」
と言う言葉は一言一句、私も心の底からその通りだと思う。だからこそ、目には見えずともお互いのお気持ちの受け渡しの場になれるのだと。
ラジなん最終回は、往年の久米さんを彷彿とさせる赤坂の街中からの中継(街中のお子さんに語りかける口調がとても穏やかで和まされたし、たまたま中継のタイミングで出くわしたその辺のカラスまで見事に味方に付けていた伝説的な中継だった…笑)に始まり、番組の最後には
「僕はクセがある人間なんで、スタッフは苦労したと思いますね。聴く方もクセがあると思います。これでお別れっていうわけじゃありませんから、またチャンスがありましたら、いつか、そのうち、是非に。」
と優しいトーンで、かつ、サラッとした言葉をもって番組が締めくくられた。最後の1秒まで話が途切れずに。
いつも通り。何も変わらず。
いつも聴いているラジオ番組が終わると、自分の日常生活の一部がポロっと欠けて無くなったような、何とも言えない感覚がじわじわやって来る(他のメディアに比べて濃い縁を感じているラジオの場合は特に…)のだが、また来週からもこの番組が聴けるのではないかとリスナーが思うくらいごくごく自然な最終回だった。
本物のラジオの送り手にはきちんとした起承転結がある。それはきっとその人の声から伝わってくる何年も培ってきた「生き様」から滲み出てくるものなのだろう。
「またチャンスがあったら、いつか、そのうち、是非に。」
私もあんなカッコいい引き際の美学をいつの日か形にしてみたいものだ。それが実現出来るようなそんな「生き方」が出来れば。