鑑賞メモ METライブビューイング 2021-22 #5 リゴレット
ヴェルディ中期の作品、オペラ『リゴレット』。これまでメトロポリタン・オペラ、METでもさまざまな演出で上演されてきた。2012-13シーズンでは、舞台設定を1960年代のラスベガスとした演出が物議を醸したが、題名役リゴレットを演じたルチッチの演技と歌唱が実に心に染みたこともあって、若い世代も含めてオペラに親しんでもらうには、これもありかなと考えたことを思い出す。
今回はバートレット・シャーの演出で、舞台設定を1920年代のドイツ、ワイマール共和国とした。これもかなり大胆な発想だとは思うが、始まってみれば、とくに違和感なく入り込んでいくことができた。
専門家ではないが、誰がどんな演出をしようと通常は歌詞にも音楽にも手を加えないのがオペラだと思っている。METもその方針はずっと守ってきたと思うが、それでも演出が変わると、なぜか全体の印象が大きく変わったり、いままで見えなかったことに気づかされたりするというのは本当に面白い。
幕間の映像で、シャーがゲルブ総裁と対談し、リゴレット、ジルダ、マントヴァ公爵の三人の心の動きや関係性を明確に描き出すことに腐心したというようなことを語っていたが、確かに過去のライブビューイングの別の演出を思い返してみると、今回はその点で見事に成功していると思う。
リゴレットを演じるクイン・ケルシーは、鬱屈した心情を動作と歌唱でうまく表現していたし、なんと言っても、マントヴァ公爵を演じるテノール、ピョートル・ベチャワだ。METでもだいぶ前から公爵を演じているが、あらためてみると、色男ぶりはそのままだが、首周りや体つきにだいぶ貫禄が出てきたし、何より声にまろやかさが加わってきたと感じた。ジルダを演じたローザ・フェオラのことは実はよく知らなくて、事前に予備知識も得ていなかったが、美しい高音をしっかりコントロールして、それでいて全体的にみると適度に抑えた演技に、強い印象を受けた。また、殺し屋スパラフチーレのアンドレア・マストローニも渋い声と演技で喝采を受けていた。
ひとつ思いがけない発見があった。発見といっても、作品に詳しい方からみれば、そんなの当たり前と言われてしまうかもしれないが。それは第2幕の冒頭。マントヴァ公爵が、自分の部下たちの仕業とも知らずに「ジルダが拐われてしまった」と嘆きながら、単なる欲望の対象としてだけでなく、恋心を抱いてしまった相手への思いを歌う Parmi veder le lagrime の最後のクライマックスの部分を聴きながら、ふと気づいたのだ。おや? これはどこかで聞いた節回しではないか? そうだ。このすぐ後でリゴレットが公爵の手下に娘を返せと懇願する『悪魔め、鬼め』Cortigiano の最後の部分とよく似ている、というかほぼ同じなのだ。あらためて聞いてみる。やはり同じだ。これは今まで気づかなかった。
ヴェルディの意図はなんだったのだろう。ジルダの運命を思う不安な気持ちという点では、公爵もリゴレットも同じだが、その立場はまったく反対である。そこに同じメロディーを持ってくることで、かえって対比を際立たせたということだろうかなどと言ったら考え過ぎだろうか。
第三幕、エンディングは、正直、少し物足りなさを感じた。リゴレットの悲痛な嘆きはもちろん伝わってくるのだが、演出家の意図か、それともケルシーの意図なのか、もう少し激しく憤り、嘆き、悲しんでもいいのではないかという感じがしてしまった。
カーテンコールの映像では、客席の反応も映るが、上の階の席にやや空席が目立つように思えたのは気のせいか。感染症による厳しい入場規制の影響もあるだろうが、こういう小さいことがどうしても気になってしまうのは悪い癖である。
映画館でなく、実際にメトロポリタン歌劇場に足を運ぶことができる日が一日も早く訪れますように。そして、何よりも、この戦争が終わり、世界が平穏を取り戻す日が、少しでも早く訪れますように。
メトロポリタンオペラ リゴレット
ニューヨーク メトロポリタン歌劇場
2022年1月29日収録
METライブビューイング(松竹系映画館)にて鑑賞