治五郎のウインク
治五郎のウインク
主人公は人の言葉が分かる猫の治五郎。
ハードボイルドの主人公のような性格だが主人の奈柚ちゃんが大好き。左目を一瞬つむって人の顔や景色を正確に覚えるという特技を持つ。2人の出会い編をおまけに掲載。
探し物はいつも主人の失くした物だった。
この家の主人はうっかりなのか慌て者なのか、それとも物にあんまり興味が無いのか分からないが、とにかく物をよく失くす。
おまけに失くした事も忘れてしまう。
さらに探し物も苦手ときている。
初めは家の中をうろうろしている主人を黙って見つめているだけだったが、ある日、
「ねえ、私の携帯知らない?」
と聞いてきたので置いてある場所まで連れて行って教えてあげた。
人間のコトバは分かるけど、猫がいきなり喋ったら色々問題があるので、ジェスチャーだけで探しているモノがある場所まで連れて行く。
そんなある日主人と並んでTVを見ていたら、ふと思い付いた様に急に話し掛けてくる。
「ねえ、この人どう思う?」
携帯電話の画面に映し出されたのは何処にでもいそうな人間の写真だった。
ふ〜ん、主人はこういうのが好みなのか?
人間の恋愛に関する趣向など知る術も無いが、やはり主人も年頃の女性なのでボーイフレンドの1人や2人いてもおかしくない。
俺は一瞬左目をつぶって1秒だけ写真を見て男の顔を精密に記憶する。
「あら、今ウインクしたわね♪
付き合ってもいいってコト?」
違う!記憶しただけだ。
顔の写真だけで良い人間かどうかなんて分かる訳ないじゃないか。
俺は抗議の意味で大あくびをしてから外に通じる猫用の小さなドアを額で押して開ける。
「行ってらっしゃーい」
主人の声を後ろにそそくさと出ていった。
男は案外あっさり見つける事が出来た。
主人の行動範囲なんてたかが知れている。
遠くまで行く時には一瞬に行ってあげているので大体の当たりは付く。
男は主人の行き付けの美容室の美容師だった。
人間はよく「美容師、バンドマン、バーテンダー」を指して3Bとか言うけど大丈夫なのか?
首尾よく店に忍び込み俺は男に話し掛ける。
「にゃー、にゃー、にゃにゃにゃ?」
(主人と真面目に付き合う気はあるのか?)
俺は近所の猫がシッポを巻いて逃げ出す位の気合いを込めて言い放ったが、男は怯まずにこっちを見てしゃがみ込んで来た。
「ん?お腹が空いているのかい?ちょっと待っててね」
これだから人間は嫌なんだ。
全く俺たちの言葉を理解しようとしない。
「ほら、残り物で悪いけど、良かったら食べてね」
腹なんか空いてないと断わろうと思ったが、皿の上のおかかがうねうね動いていてやたら美味そうだったので食べてやる事にした。
「うにゃん」
(頂きます)
それからと言うもの、家と美容室を往復するのが日課になった。
主人に変な虫が付いたら困るので念を入れて調べなければならない。
美容室の男はお客さんが忙しい時も、
「すみません、猫が来たので」
と断って俺の食事を用意してくれる。
太らない様に気を付けてねずみを追い掛け回したり木登りをしたりしてカロリーを消費するしかなかった。
まあ、主人の為だから義理飯も仕方ない。
しかし、この美容室の男はお客さんに人気があるし、なかなかの男だと言う事が段々と分かって来た。
これならまあ、交際を許してやらない事も無いと考え始めた。
そんなある日、何故か主人が朝からウキウキしている様子なので怪しく感じた。
洋服選びにいつもよりも時間を掛けているし髪もやたら念入りにドライヤーを掛けたりしている。
ほう、最近では1番決まっているなと思って一瞬左目だけつぶって精密に記憶する事にした。
「あら、ウインクしたわね!この服がいいってことね♪」
まあ、そうとも言えるから黙っていたら家から1人で出て行こうとする。
俺は抗議の声を上げる。
「にゃー、にゃー、しゃーっ!」
(1人で行くなんてずるいぞ!)
「分かってるって。治五郎も一緒に行く?」
俺は狭苦しくて嫌いだが仕方無くカゴに自分から入った。
うとうとしているといつの間にか目的地に着いていたようだ。
主人が来たのは何とあの美容室だった。
主人と美容室の男が楽しそうに話をしていた。
カゴには鍵が掛かっていたので抗議の意味でありったけの声を上げる。
「開けろ!開けろ!」
(うにゃん、うにゃん)
「猫ちゃんが出たがっているみたいですね、宜しければどうぞ」と美容室の男。
「良いですか?」と主人。
ちょっとだけ眩しくて眼をパチパチさせながら出て行くと美容室の男は驚いた顔で俺を見つめる。
「あっ、この猫!お客様の猫だったんですか?よく来るって言うか毎日ウチの店にくるんですよ」
主人は眼を丸くする。
「えっ、そうなんですか?ウチの治五郎がお世話になってしまいすみません」
それからと言うもの帰るまでずっと俺の話で持ち切りだった。
まあ、気分は悪くない。
美容室の男には《治五郎に会いに行く》と言う口実をまんまと与えてしまったが、まあ良しとしよう。
主人も喜んでいる事だし。
少し気が早いが結婚するつもりなら家には大きめの"ハリ"を渡してくれる様に頼むつもりだ。
その位の甲斐性はこの男ならあるだろう。
俺は並んで座っている主人と男を視界の中に納めると一瞬左目を瞑って精密に記憶した。
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プロローグ
〜治五郎と奈柚の出会い〜
顔を近付ける。口をすぼめる。わざと耳に甘い吐息を掛ける。
何とか俺の気を引こうと懸命だ。
なかなか手練れだが俺達だってこれで飯を喰ってるプロだ。
目当てのものを運ぶ女以外には一瞥もし無い。諦めて女は去って行った。
俺にゴロゴロされたければ鰹節の一片も持って来いにゃ。
治五郎ウインク 完