私が生まれる前の話
最近、取り立ててエッセイとして纏めるほどのことがなく、然すれば自著伝のように、私が生まれてから大人になるまでの話を纏めてみればよいのではないか、と思ったので、エッセイ式ではなく自著伝を綴るかたちにさせてもらう。
私は、父方祖父母にとっては望まれた子ではなかった。両親はきちんと結婚をしているし(母親は「外堀を埋められた結婚だ」と折に触れて溢していた)、田舎のちいさな一戸建てに祖父母と曾祖父母、私の両親、まだ学生だった叔父とで同居をしていたらしい。
らしい。というのは、私の古い記憶を探ると、自分の家だと認識していたのは、駅から少し離れた、白い壁に白いドアのモダンなアパートメントの2階の一室だからだ。そこには第二次世界大戦を戦地で生き抜いた母方の曾祖父も、頻繁に遊びにきていたと聞いている。
母は祖母と折り合いが悪かった。
母には母で問題がある(恐らく後述すると思う)が、なによりも祖母の衛生観念のなさや、所謂"メシマズ"さ。賞味期限が一年過ぎようと二年過ぎようと無頓着であったり、肉じゃがに油抜きをしていない厚揚げを放り込んでみたり。そして驚くほど陰湿で、性格の悪さが問題であった。
祖母は、身重の母を嫁イビリしていたという。
妊娠を告げた母に対して、「で。あんた産むつもりか? 」と言い放ったという。ーーそう、私は望まれた子ではないのだ。何度か母から聞かされ続けるうちに、その言葉はゆっくりと私を蝕んでいった。なのでもし、これを読んでいる方で嫁姑の間に何らかの軋轢があったとしても、それはお子さんが理解できる年齢になるまでは、どうか御自身の胸の内に隠すかtwitterにでも書き捨てて、どうかお子さんには絶対に伝えないであげてください。
そこかしこに居る母方の大叔父や大叔母の家で気晴らしをしたり、食事をいただいたりしていたものの、母は体重が妊婦とは思えないほどに激減したという。産婦人科で「このままでは、この子はお母さんのお腹の中で死んでしまいます」とまで言われる始末。母方祖父母は大激怒。「娘を病気にするために嫁がせたのではない」と祖父が啖呵を切って、ウジウジと迷う父親に「ここで一緒に来ないと、二度と娘と孫の顔は見せないぞ」ともう一喝。
そうして両親は同居を解消し、車で40分ほどの街に先述のアパートメントを次の住まいとしたのであった。
母体であまりの小ささに死にかけた赤ん坊は、3月25日という予定日を大きく大きく過ぎて、出生体重も大きくなって、そうして1989年4月12日午前6時28分に、22歳の父と5つ上の母の間に第一子長女として誕生した。私、綺野愛海(あやの あみ)の誕生である。
エコーでは常に「男の子だねぇ」と言われていたため、母や母方祖母、叔母たちはお喜びで男児服を買い揃えていたとかなんとか……ところがなんと、出てきたのは何も付いてない女の子だったわけで。
名前もなんというか……候補のなかから選ばれたわけでもなく、今も特に調べられていない名前が付けられましたとさ。
候補には愛ちゃん、未来ちゃん、樹里ちゃんなどがあって、どれもいいなあと思ったという懐かしい話です。ちなみに、男の子だったら私の名前は翼くんでした。かっこいいね。
こんな感じで、私の覚えていることを少しずつ纏められたらいいな、と思っているので、興味のある方はまた是非いらしてください。
今日も生きててえらい。