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(ニンジャソン冬2018)ア・ニュー・ホライズン

1.

 借金取り。借金取り。そしてまた別の借金取り。この年末の訪問客は、世間との交渉をできる限り断っているこのおれにしては珍しく多かった。別に嬉しくはなかったが。だがせっかく我が家を訪ねてくれた彼らにとっては残念なことに、年が暮れようがカレンダーが何枚めくれようが、そんなことはおれの経済状況を好転させるものでは一切ない。使える金は全て使う。それがおれのモットーだからだ。

 いや。待ってほしい。何もおれは、考えなしに有り金を全部使っていたわけではない。おれもバカではないのだ。おれは費やした金を確実に増やすことができる投資テクニックを一つだけ知っている。それを頼りにしていたのだ。知りたいか? 教えてやろう。それはサイバー競馬と言う名の、由緒正しい伝統的知的遊戯だ。

 まあなんの因果か、不思議なことに、今回はたまたま金が増えて戻ってくることはなかったのだが。

 前回も増えなかった気がする。

 とにかくそういうわけで、この蜂の巣めいて狭い高層安普請アパートの我がシックス・タタミ・サイズド・ルームで、スマキにしたおれを前にして、借金取り各位の営業成績を巡った作戦会議が始まろうとしているところであった。

 おれは恐る恐る呟いた。「あの、冷えてきたことですし、チャでもお出ししましょうか……」

「いらねえ」と臭いタバコを吸いながら冷たく言ったのはさわやかローンのテンダイ=サンだ。トラディショナルヤクザパーマのこの男とは、最も古い仲だった。テンダイ=サンは続けて言った。「というより、アンタがチャなんて置いてないこと、おれは知ってる。アンタはそんなカネがあればそのカネで馬券を買う。そういう男だ」

「この男、口だけは妙に回るんですよね。今のも縄をほどいてここから逃げようとする方便に違いないですよ」首を傾げながらそう言うのはカニフライキャッシングのイケニタ=サンだ。「なんでこんなヤツにあんだけのカネを貸しちゃったのかなあ。完全に失敗ですよ。参ったなあ」

「そうだよね。ボクもそう思うよ!」最後に口を開いたのはクマチャンローンから来たというサイバーサングラスの埋め込まれた巨大なテディベアの着ぐるみだった。こいつは甲高い声で笑うと続けて言った。「人から借りたお金を全然返さないなんていうのは、絶対にダメなことだよね。とっても悪いことだと思うよ。ボクはね、とても怒ってるんだよ! 本当の本当に! でもそれ以上に、とっても悲しいんだ。みんなもそうだよね、さわやか=サン、カニフライ=サン……。ワーン! まあ、でも、しょうがない。こういう状況になっちゃったんだ。気持ちを切り替えていこうよ! ああ、なんだか楽しくなってきたぞ! さあ、みんな! 力を合わせて、この男の生き血でもなんでも搾り取って、取れるものは今年のうちに、全部取り返そうね! チームワークだ! ワッショイ! ワッショイ! エイ、エイ、オー!」

 異様な雰囲気だった。誰も口を開かなかったし、誰も動かなかった。クマチャンは異常者を見る目で固まっているイケニタ=サンをその顔面のサイバーサングラスでじっと見つめ返すと、振り上げたままの右腕を、まっすぐイケニタ=サンの脳天に振り下ろした。

アバーッ!?」

 ゴヅリ。鈍い打撃音! 腕に鉄板でも仕込まれていたのか、頭を割られ、鼻血を噴出させるイケニタ=サン。クマチャンは再び威嚇的に右腕を振り上げると、裏声で叫んだ。

「チームワァーク! ワカッテー!!」

 今度はテンダイ=サンも速やかに腕を上げた。イケニタ=サンも震えながら腕を上げた。おれは縛られたままだったので、なんとか少しだけ首を横に持ち上げてみた。

 クマチャンローン。おれは間違えた相手にカネを借りたのかも知れない。その借金取りの内側には、テディベア生地を全身に縫い付けられた全裸の発狂マニアックが潜んでいるのだという。まともな言葉の通じないこのテディベア集団は、どんな手を使ってでも必ず貸し付けた資金を回収するのだという。

 だがもはやおれには、そんなところしか頼る場所が残っていなかったのも事実だった。クマチャンローンから借りた金を元手に増やせば、今抱えている借金全額をきれいに返済できるはずだったのだ。

 テンダイ=サンとイケニタ=サンの、咎めるような視線がおれに突き刺さる。こいつがここまで馬鹿なやつだったとは。こんなことに巻き込んでくれてどうするつもりなのか。そんな声が聞こえてくるようだった。おれとしても、いろんな意味で、申し訳ない気持ちで一杯だった。

2.

「年の瀬がナンオラー!? オレたちゃ年中無休でアンタイセイなの! ワカル!? 今日も明日もアンタイセイなのよ!」
「ワカル! ワカル!」
「オレたちゃ勤勉なの! だからパンクなのよ! コミー・パンクよ! 新体制なのよ! ワカル!? ワカッテル!?」
「ワカル! ワカル!」
「ワカッテルー!?」
「ワカル! ワカッテルー!」

 窓の外から聞こえてくるのは酔っ払った赤色パンクスどもの騒ぐ声だ。出世ルートから脱落したインテリサラリマンたちの最近の受け皿らしい。偉大なるロシアの父めいたヒゲをはやし、鎌と槌を手に夜な夜な獲物を求めて徘徊するこいつらは実際危険だ。だが今のおれにとっては、そんな赤色パンクスで一杯の退廃クラブで、夜通し自由資本主義の罵倒講義をするほうがまだマシな状況のように思えた。倒れ伏しているイケニタ=サンのうえにどっかりと腰を据えた発狂クマチャンは、完全にこの場を支配していた。

「まあ、なんだ。シュンジ=サンよ」

 そう渋い顔でおれに言ったのはテンダイ=サンだ。彼はタバコの煙を細く吐き出すと続けて言った。

「結局のところよ、おれたちに返すあてはあるのかい、あんた……」
「ああまあ、そうですね、例えば……」
「またサイバー競馬なんて馬鹿げたこと言ったらよ、わかってるよなあ、あんた」
「アイエッ……」

 言葉を先取りされてしまっては何も言えることはない。おれは神妙な面持ちで素直に黙った。
 横目でちらりとクマチャンのほうを見る……虚空を見つめて小刻みに震えていた。イケニタ=サンから腰を上げるつもりはないのだろうか。

「あんた、実際さあ、賭け事はもうやめたほうがいいぜ。この道に誘ったおれが言うのもなんだけどよ」と言うのはテンダイ=サン。「ほんと、あんたほど賭け事に熱中できて、それであんたほど勝てない奴ってのは初めて見たよ。実際。もう五年間負けっぱなしだろ? 適性ってもんがないんだろうな」

「ハハハ、まあ、なんと言いますか、そうみたいですねえ……」おれは苦笑して答えた。

 おれとテンダイ=サンの出会いは、その五年前の相撲バーでのことだ。女にフラれて酔っ払っていたおれの隣に突然現れ、「失恋か? 振り切るならギャンブルだ」と誘いをかけてきたのだ。これがテンダイ=サンの常套手段なんだろうが、実際サイバー競馬は面白かったし、そこから精神的には持ち直すことができた。そこは感謝してはいる。それが今のこの状況の遠因になっているとしてもだ。

 五年前……五年前か。あの頃はおれもまだ若かった。今のおれといえば……。

フウウウン! シュンジ=サンとテンダイ=サンは、そういう仲なんだねえーっ! そういう、仲なんだねええええ!」「アバッアバッババババーッ!?」

 ボギリ。「アバーーッ!!」突然の嫌な音。その方向を見れば、クマチャンがイケニタ=サンの右大腿骨をその握力だけでへし折っていた。

 なぜだ。今の会話のどこに激昂するところがある。あのタフガイのテンダイ=サンですら冷や汗をかいていた。このテディベア、一体どう取り扱えばいいんだ。おれにはさっぱりわからなかった。

 いや、金を返せばいいんだが。返す金がないのが問題なのだ。そういうことなのだ。

 そこでテンダイ=サンが口を開いた。「よし。よしわかった。あんた、クマチャンだったか? ちょっと話をしたいことが……」
「サンをつけて!」発狂テディベアが再び激昂する。「サンをつけてよ! 無礼なヒゲ野郎が!」
「よし、よし、よし、クマチャン=サンだな、わかった。悪かったよ。わかったから落ち着いてくれ。なあ。ちょっとばかしな、あんたにご提案をしたいことがあるんだ。な?」テンダイ=サンはタバコをもみ消すと続けて言った。「話、ちょっとだけでいいから、聞いてくれないか」

 それを聞いたクマチャンは何も言わずにゆっくりと腕組みをし、痙攣しているイケニタ=サンの上に据えた腰をもぞもぞと動かした。どうやら話を聞く気になったらしい。
 その様子を確認したテンダイ=サンは、別のタバコに火をつけてから言った。「どうやらシュンジ=サンなあ、本当にどうひっくり返してもどっからも返すカネが出てこないみたいなんだよ。参っちまうよな」
「うん、そうだね」クマチャンは裏声で同意した。「借りたお金は、返さないとね」
「あんたが今上に座ってる男も同じ理由で困ってるみたいなんだな。とにかく、今のこの状況でなんとかこのシュンジ=サンからカネを産まなきゃならねえ。そこでだ。これを見てくれ」テンダイ=サンが取り出したのは古風な小型UNIXだ。その画面には、NSPDのロゴの入った電子文書──自警団募集の広告が掲載されていた。
 とうとう気絶したイケニタ=サン以外の皆がそれを見たのを確認すると、テンダイ=サンは続けて言った。「なあほら、シュンジ=サン? ちょうど今、そこの路地にいるだろうよ。赤色パンク共が。それを締めてよ、NSPDに突き出せば、どうだ、ちょっとしたカネにはなるんじゃないか?」
「いや、ハハハ……」おれは苦笑いをしながら言った。「あの、ほら、おれがカートゥーンのあの……コウモリ男ならまだしもですよ、そんなの……ねえ?」
「大丈夫だ、心配するな」テンダイ=サンはにっこりと笑うと言った。「ほら、ここ見てみろよ。自警団活動で死亡した勇気ある市民には、市警から謝礼金が出るんだってよ? これが結構なんだ、大した額じゃあないか」
 テンダイ=サンは腰を上げると部屋をぐるぐると歩きながら喋り続ける。「それにおれはなんだ、今まさに、この状況からでも入れる生命保険を知っている。アンタどうせ保険なんて掛けてないんだろう? 要するにそういうことさ。さあシュンジ=サン! 今がそれだ! 今がまさに男ってやつになるべきときだぜ! ガハハハハ!」

 そこでテンダイ=サンはおれの肩を組むと、顔を寄せて小声で言った。「話を合わせろ。外に出るぞ」
「え」おれは困惑しながらも小声で答えた。「まさかですよね」
「まさかだ」テンダイ=サンが言う。「この家は捨てろ。今日はお開きだ。あいつは何かやばい。一緒に逃げるぞ。わかったな」

 おれがあっけに取られている間に、テンダイ=サンはおれの背中をバシバシと叩くと、大きな声で言った。「そうかそうか! やってくれるか! いや、見上げたもんだよシュンジ=サン! まるで、ええ、二年前のデジ・アリマ・ステークスの大一番のとき以来の男っぷりじゃねえか! 痺れるねえ!」

 そしてテディベアのほうを振り返ると続けて言った。「そういうわけで、クマチャン=サンよ。ちょっくらシュンジ=サンを送り出してくるから、あんたはしばらくここで待っててくんな。二、三時間もすればいい土産を持って帰ってくるぜ。どっちの結果になるにしてもな! ガハハハハ!」

 クマチャンの返事を待たずに、おれとテンダイ=サンは家を飛び出すと、駆け足で階段を降り始めた。おれは思わずテンダイ=サンに聞いた。「テ、テンダイ=サン、なんで……」
「バッカ野郎お前、あの場でそのままいたらおれたち二人共どうなってたかわからねえぞ。イケニタ=サン見たろ? イケニタ=サンのカニフライキャッシングといえばそこそこの武闘派で知られる会社だ。同業者ではその点知らないやつはいない。そんなところの社員の足をあれだけ気軽に折るヤツだぞ? 得体が知れないなんてもんじゃない」テンダイ=サンは走りながら次のタバコに火をつけると付け加えるように言った。「それにまあ、アンタの借金のきっかけを作ったのはオレだし、アンタに初めてカネを貸したのもオレだからな。あのままほっといて、クマチャンの餌食にするのも気が引けるってもんだよ。なんてなあ……」

 ああ、おれもヤキが回ったかなあ、などとボヤくテンダイ=サンに、おれはブッダを見る目で感謝した。テンダイ=サンは苦笑しながら言った。

「シュンジ=サン、今更の話だけどな、あんたにギャンブルと借金を教えたおれが悪かったよ。ここまで落ちるとは思わなかった。だから、おれがあんたに悪い遊びを教えただけのケツは、おれがきっちり拭いてやる。マジでギャンブルはもうやめとけ。おれはこれから、あんたをおれが知ってる中でもまだマシなカイシャ……まあいわゆるタコツボに入社させる。心配するな、違法行為じゃない……。そこで真面目に働いて、真面目に借金返すんだ。あんたにはそれがいい、あんたにはそれが似合ってる。終わった頃には貯金ができるようにも手配しておいてやるし、それとこれは秘密だが、これから住む部屋にはこっそりエアコンもつけておいてやるよ。それできちんと毎月おれに……おっと。このまま進むと例の赤色どもと鉢合わせだな。迂回しないとまずいことに……」そこまで言ったところで、テンダイ=サンは凍りついた。

「ど、どうしたんで……アイエエエエエ!」おれは思わずそう叫んだ。今まさに進もうとしていた曲がり角の薄暗がりからぬっと出てきたのが、あの発狂テディベアだったからだ。

 それはズタボロになったイケニタ=サンを引きずっていた。

 異臭がする。テンダイ=サンが失禁していた。おれも気づいたら失禁していた。股間に広がる暖かさが、なんだか場違いみたいに心地よかった。

3.

「逃げろ、シュンジ=サン! 逃げろ!」テンダイ=サンはチャカガンを抜くとそう叫んだ。「どこでもいい、とにかく──」
イヤーッ!」カラテシャウトとともにテンダイ=サンの目の前に放り投げられたのはイケニタ=サンだ。超速度で衝突した質量に思わずテンダイ=サンは倒れ込む。そこへすかさずクマチャンがマウントを取った。

 おれにはクマチャンが拳を振り上げるところまでしかとても見られなかった。

アイエエエ! アイエ」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「アバババババーッ!
 テンダイ=サンの悲鳴を背後におれは駆け出した。ひたすら走った。前を見ずに足を動かした。

 ああ、なぜこんなことになってしまったのか。何がいけなかったんだ? 先週に手持ちのカネを全部賭けたことか? それとも去年の大当たりでカネを返さずにオモチ・キャバクラで豪遊したことか? そもそもあの日にサイバー競馬を始めたこと? それとも五年前のあの日にユミコと別れたこと? 何だ? 何が間違いだったんだ?

 おれはいつから全てを間違えて来てしまったんだ?

 おれは泣きながら走っていた。見えない視界でぶつかったのは赤色パンクス。いや街灯から吊り下げられた赤色パンクスたちの死骸だった。

シューンジ=サーーーーーン! シューンジ=サーーーーーン!

 そう裏声で叫びながら赤色パンクスの死体の間を縫って近づいてくるテディベアの右手にはテンダイ=サンの頭が、左手にはイケニタ=サンの頭が掴まれていた。それはずりずりと二人分の身体を引きずりながら歩いてくる。

 狂ったテディベアがサイバーサングラス越しにおれを見つめていた。それに映るおれ自身を見たとき、おれは泡を吹いて失神した。

 ◆

「勇気がなかっただけなんだよね、シュンジ=サンは」

 気を取り戻したとき、見えたのは見慣れた我が家の低い天井で、聞こえたのはクマチャンのその声だった。肉に何かを縫い付けるような、濁った音がバックに聞こえていた。

「今日も怖かったから逃げてきちゃったんだよね。クマチャンにはわかるんだよ。あのときもそうだった。シュンジ=サンは、優しすぎるんだよね」

 クマチャンは両手を動かしながら続けて言った。クマチャンの身体越しに、テンダイ=サンらしき手足が痙攣しているのが見えた。

「でも大丈夫。そんなシュンジ=サンでも、この借金取り=サンにも、みんなに勇気をあげれる方法があるんだよ。これがあれば、きっとダイジョブ。みんなうまくいくよ。ホント」

「な、何を……」おれは呻くように言った。そこで手足がベッドに縛られていることに気づいた。

シズカニシテテーー!

 クマチャンの怒声。おれは軽く失禁した。

 発狂テディベアは気を落ち着かせると、続けて言った。「これはね、とっても集中力がいる作業なんだ。だから邪魔してほしくないんだ……今は最後の仕上げだから……うん……」

 そこでおれは、クマチャンの声とは別の誰かがすすり泣く音に気づいた。

 そちらに首を巡らせる。ガラス玉の瞳。削がれた鼻。顔面をいびつな人皮テディベアに改造されたイケニタ=サンの姿がそこにはあった。無理に縫い合わされた口元からは、ムオオオ、ムオオオという異音が発せられ続けていた。

アイエエエエ! アイエエエエエ! アイエエエエエエエエ!
「心配しないでシュンジ=サン! ダイジョブだから! これで寂しくないから! もうすぐこっちも終わるから! みんな一緒だから!」おれの悲鳴でテンションが上がったクマチャンが叫ぶ!「みんなでギャングを狩りに行こう! それで報奨金をせしめるんだ! それでまずシュンジ=サンの借金を返して、それからクマチャンハウスを建てよう! いいぞ! いい感じだ! クマチャンハウスにはクマチャンしか住めないんだ。クマチャンだけの家、クマチャンだけの世界! いいじゃないか! いいじゃないか! ボクたちはこれで最強! 最強になれるぞ! 最強なのはチームワァークなんだよー!

 おれの枕元にテディベア改造されたテンダイ=サンの顔面が押し付けられる。テンダイ=サンはガラス玉の瞳から涙を流している。おれはもはや発狂寸前だった。

「オマタセ」

 そしてクマチャンの両手が優しくおれの顔面を包み込む。

 そこでおれの意識は飛んだ。気づいたら部屋の隅に立っていた。両手両足には破れたダクトテープ。口にはテディベア生地の切れ端をくわえていた。

イヤアーー! イヤアーー!」

 悲鳴を上げているのはクマチャンだ。顔を抑えている。足元には落ちて割れたサイバーサングラス。どうやら顔面の生地をおれが無我夢中で食いちぎったようだ……。

 いわゆるカジバヂカラというやつだろうか。今になって震えが来た。恐ろしい。動けない。多分おれはもうだめだ。やられてしまう……。

 しかしクマチャンはうずくまったまま動かない。しばらく硬直状態が続いた。そしてクマチャンが口を開いた。

「鏡、どこ……」
「と……トイレに……」
「……わかった……」

 おれに目もくれず、よろよろとクマチャンはトイレへと向かっていく。どうやら泣いているようだった。

 その背中に、おれはユミコの五年前のあの姿を──。

 いや、そんなはずはない……。

 クマチャンはトイレのドアノブを回した。開かない。鍵がかかっているようだった。

 鍵? 誰が入っているのか?

 なぜ? なぜ? なぜ?

 クマチャンは律儀にノックをしてから涙声で言った。「入って、ますか?」

「入ってますイヤーッ!」返事はドアを突き抜けて飛んできたカラテストレートだった!

グワーッ!?」クマチャンは台所までふっ飛ばされた。ああ、だが、そのおれが食いちぎったテディベア生地の向こうに見えた素顔はまさしく──。

 おれはクマチャンを殴った赤と黒の謎の侵入者を見る。その男は、おれを一瞥だにせず、クマチャンに向けてこう言った。「ドーモ、フェイクファー=サン。ニンジャスレイヤーです。ようやく見つけたぞ。またぞろ哀れな犠牲者を増やしたようだな」そしてカラテを構える。「生かしてはおけん。貴様はここで殺す」

「ド、ドーモ、ニンジャスレイヤー=サン。フェイクファーです」ユミコはよろよろと立ち上がるとそう言った。「フ、フ、フ……怖いわね。とても」

 フェイクファー? なんだそれは。こいつはフェイクファーなんて名前じゃない。ユミコのはずだ。顔中縫い跡だらけになっていても、その顔は見間違えようがなかった。

 ニンジャスレイヤーと”フェイクファー”はカラテで戦い始めた。だがしかしその力量の差は明らかだった。だってそりゃそうだ、ユミコはケンカなんてできる子じゃない……。おれはまるで夢を見ているような心地だった。そうだ。これは夢だ。こいつらはニンジャだ……ニンジャなんているはずがない……。

 イクサの最中、ユミコがこっちを見て少し笑ったような気がした。

 おれは手を握りしめ、いつの間にかユミコのことを応援していた。頑張れ、頑張るんだユミコ……。

 だがそれでも、どうしてもおれの足は動かなかった。

 そして数十回の切り結びの後。"フェイクファー"の鋭いツキがニンジャスレイヤーを貫いた! かのように見えた。だがニンジャスレイヤーは巧みなジュー・ムーブで、それを逆に脇に挟んで捉えて、"フェイクファー"の動きを封じていたのだ! ああ、そして……「ニンジャ殺すべし! イヤーッ!」……ニンジャスレイヤーの電撃的チョップが閃き、とうとう”フェイクファー”の首を撥ねた。サヨナラ、と叫んだ生首は垂直に飛び上がる。残された胴体は爆発四散した。あたりにはテディベア生地の欠片が羽根めいて舞い散っていた。

 おれはそれを見て、ただただ呆然としていた。現実感がなかったのだ。

 ニンジャスレイヤーは”フェイクファー”の生首を拾い上げると、どこかに連れ去ろうとしていた。そこで初めておれの脚が動く。やっと。おれはその男に縋り付いた。その生首に縋り付いていた。自分でもなぜだかわからなかった。

 おれは声を絞り出した。「た……頼む……。お願いだから……お願いだから……」

 ジゴクめいた瞳がおれを見つめる。おれの懇願に対する無言の答えは、首筋への優しいチョップひとつであった。
 おれはいつでも遅すぎる。そのことに気づくのも、いつも遅すぎるのだった。

4.

 ユミコは世間知らずな女だった。だからヤミ金融が何か知らなかったし、クマチャンローンがどういう会社かもわからなかった。ただ親の医療費が必要で、切羽詰まっていて、その時たまたま奴らに優しく声をかけられて、それに乗ってしまった。それだけの話だった。

 ユミコと”別れる”きっかけになった電話では、クマチャンローンに拉致された、こんな会社だとは知らなかった、お願い、助けに来て、殺されちゃう、なんてことを言っていた。

 それを聞いたおれは、ビビって電話を切った。引っ越しさえした。最低のカス野郎だった。

 それでも、ユミコはそんなカス野郎を、あんな様になっても覚えていてくれたようだった。

 暗い部屋の中で目が覚めたとき、イケニタ=サンもテンダイ=サンも、無茶な施術がたたってか息を引き取っていた。警察にはありのままを説明したが、なかなか信じては貰えなかった。

 おれと、あの二人と、そしてユミコ。年末のあの夜を生き残ったのは、そのうちおれだけだった。

 あのときああしていればよかった。いやそもそもこうするべきだった。おれは。おれには。そんな考えが山のように浮かぶ。だがそこには、今この瞬間に何をしようと、どれだけ悔やもうとも一切変えることの出来ない、厳然と残されたただの結果だけがあった。

 あのニンジャスレイヤーという男の姿は、あの部屋も、この街も、どこを探しても影も形もなかった。

 おれはこの先どうしていくべきなのだろうか。何から始めるべきで、何から止めるべきなのだろうか。どのような人間になればよいのだろうか。

 答えてくれそうな人はもうどこにもいない。今のおれには、もうこのおれ自身しかいないのだ。

 そして年が明けた。おれは相変わらず競馬場にいた。馬券を買っているのではない。ツテを利用して、従業員として働き始めたのだ。ギャンブルはもうやめた。それに週に一度ではあるが、精神鍛錬のために、合法ハッカードージョーと、カラテトレーニングにも通い始めた。

 何をどうしてもこの五年間は取り戻せるものではない。だがそれでも、おれはこれまでの生き方から決別することに決めた。よりよい方向になるよう、努力をし始めた。これが正解なのかどうかはおれにはわからない。ただ、何か変化が必要なのだと、変わらなければならないのだと、今がその時なのだと、あの夜の出来事にはそのような意味があったのだと、そう思ったのだ。

 シフトが終わった。おれはロッカーから防寒PVCコートを取り出して羽織ると、競馬場を後にする。ふと思い立って振り返り、ひとつ呼吸を置くと、アケマシテオメデトゴザイマス、と、小さく呟いた。テンダイ=サンとイケニタ=サンの関係者への、顛末の説明は昨日済ませた。今日の行き先は、ユミコの両親の元だった。

(おわり)

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