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平和について考えたことはあるかい(雑日記)
私はけっこう真剣に……本当に真剣に、平和とか愛についていつも考えてる。
ほんとうに、個人のひとりひとりがすぐに怒りや憎しみ、悪意に飛びつくこと拡散すること安易に表明することをやめられたらいいのに。
ほんとうに、個人のひとりひとりが隣人を愛することができればいいのに。
ほんとうに、個人のひとりひとりが身の丈の幸福について改めて、他者を害することなく満たされればいいのに。
「影響力のある誰か」とか「どこかの有名な誰か」とか「権力やえらい立場のある誰か」とか、或いは団体・機関とか、そういう漠然とした誰か・何かじゃなくて、個人のひとりひとり。あなたでもあるし、私でもある。そんなひとりひとりが、少しだけ変われれば、気を遣えれば、ひと呼吸落ち着くことができればいいのに……って、真剣に考えてしまう。
私の周りの狭いインターネットですら、毎時間ペースで怒りとか憎しみとか妬みを表明してる人が少なくない数いるんだから本当に不思議だと思う。
その安易な言葉の表明になんの意味があるのか、別に聖人になれって思ってるわけじゃないけど、自分の中で許せなかったり怒ったりすることがあるのは自由だけど、それを心のままに公共の場に表明しているその意味って、その時間って一体、何?でもこれを趣味或いは呼吸みたいに生活の一部としている人が、少なからず、世界にはいる。
でも例えば私がその怒りに怒ったとして、いや心の中でうるせえな……とかキショ……とか思うのは実際自由として、現実の行動として怒りに怒ってしまったとしたらそれは怒りの連鎖にしかならなくてやっぱりなんの意味もなくて、だったらせめて私は連鎖を止める側でありたいなとか、そういうことを真剣に考えているんですよ、本当に毎日。
先日『バジュランギおじさんと、小さな迷子』というインド映画を見た。作中に「人々は憎しみの話題には飛びつくが愛の話題は見向きもされない(うろ覚え、意訳)」というようなセリフが出てくる。なぜ人々は共通の敵を作りたがるのか、仮想敵と戦いたがるのか、その様子を安易に拡散するのか、本当に個人単位のひとりひとりがこのことについて一度立ち止まって改めることはできないのか、できたらいいのにな。
怒ることも他者を害することも自分にとってはなんだかすごく無意味に思える。無意味どころかマイナスだとすら思う。
一方で私は正直かなり怒りっぽい。怒りの沸点が低い。会社で喧嘩したり、店でマジギレしたり、友達の元元カレをぶん殴ったり、している。だからこそ、怒りに割いてるリソースってマジで無駄だな……と痛感している。なのでせめて、怒りに直面する機会を、意識的に減らしている。耳に入れなくてもなんの損失もないゴシップとか、どこかの誰かの怒りの表明とか、個人的に地雷な話題とか、かなり徹底してブロックしている。SNSを見て怒ったり落ち込んだりイライラすることがあるなあと思う人は、まずフォローしている人のリツイートを全部非表示にしてみるといいです。私は新しく誰かをフォローした時はまずリツイートを非表示にする。次に、一日の何割かを怒りに割いている人を視界から消す。付き合いがあるからとか絵は見たいとかそういう判断基準は一切関係なく、思い切って消すんです。おすすめタブ……は私のTwitterには無いけど(年単位でアップデートしてないから)、そういうのも見ない。ほんとうに見逃して人生の損失になるようなものなんてSNSには無いんだから、ちょっと思い切るくらいの気持ちでやってごらんなさい。私がうつ病なのに割と平気な顔でインターネットに居座り続けてるのはこういうことを常日頃からやっているから、なんだな……
先日『ボブ・マーリー ONE LOVE』を見たときも私はすごく感動したんだけど、特に思ったのが「許す」ということの重要さについて。「許す」という概念を個人個人が真に獲得しない限り、多分ひとは前に進めない。
だけど私は心のどこかで人間には許すという機能はついてないんだろうなと思っている。今の我々にできることは理性の上で許したフリをして、し続けることなんじゃないかな。
私は両親と折り合いが悪くて、縁を切ってからもう何年も経っているけど、未だに毎日両親の出てくる悪夢を見る。本当に毎日見るんです。もう何年も会ってない、どこに住んでいるのか生きているのか死んでいるのかすら分からん両親の夢を、毎日見てるんですよ。もう私には関係の無い人達なのに。理性の上では許したフリをしている……というか、もう関係ない、気にする必要は無いとして振舞っているはずなのに。私が両親に向けている感情は多分怒りで、そして自力ではもう許すことができない存在に自分の中でなってしまっている。誰かを、何かをほんとうに許すことなんて、人間には多分まだ不可能なんでしょうな。だから神さまに許しを乞うたり判断を委ねたりするんだろうな。
それでも私はせめて今日も人間の理性であらゆるものごとを許しているフリをしながら生きている。今のところ、できるのはこれしかないからね。