変な人 (2)新宿の十戒老人
満員電車の人混みが、真っ二つに分かれた。
電車が駅に到着したときだった。
私が立っていたのは、車両の連結部分の扉前。
混雑はしているものの、静かに立っていた乗客たちが、どうしたことか、なにかに押されるように移動をし始めた。
この乗客の奇妙な大移動は、乗車口付近から次第に車両中央に波紋のように広がり、さらに横に移動、つまりこちらに押し寄せてくる。まるで、何かから逃げるように。
よく見てみると、人々の動きは誰かに道を開け、その誰かを奥に通そうとしているのだとわかる。皆が必死になってスペースを作ろうとし、そのしわ寄せが奇妙な動きとなってあらわれているのだ。
なんだ?
もしや、路上生活のオジサンでも、突然乗り込んできたか……、
あるいはもっと怖い、業界関係の人が……、
いずれにしても誰かがその波紋の中心にいるようだ。
その正体不明の人物は、乗車口から真っ直ぐに乗り込み、その後直角に旋回し、扉から車両中央、そして3人掛の座席の前に移動してきた。しかし私の目の前に現れたその人物は、意外なことに、ごくごく普通の老人だった。
年のころ、七十代後半。薄手のジャンパーにスラックス。痩身。街の商店街を夕方に歩けば、10人くらいは目にしそうな、普通の見た目。
この朝のラッシュどき、人々がこうまでして場所をあけたりする人物ではない。
ある1点をのぞけば。
そう、その老人の手には、奇跡の最強アイテムが握られていたのだ。
まさに映画「十戒」でチャールトン・ヘストンが握っていた杖のように、人々の波を真っ二つに割ってしまうものが。
シルバーパス。
それを老人は、まるで水戸黄門のキメシーンで角さんが、
「ひかえおろー! この方をどなたと心得る!!!」
と印籠を突き出すときのように構え、車内を突き進んできたのだ。
まさに十戒。
座席前に到着した老人は、異様な雰囲気にウタタネから目覚めた50歳がらみの女性、つまり、おばはんの前に進み、おばはんの目の前10センチのところに、劇画のコマであったら「ずいッ」と擬音が入れられるような勢いで、シルバーパスを突き出すのだった。
唖然とするおばはん。あの騒がしかった車内が一瞬静寂に包まれ、見守る乗客たち。誰かのごくりとツバを飲み込む音が聞こえたような気がした。
世の中に怖いものなし、無敵の席とり帝王と思われていたおばはんも、これには勝てなかった。
目をまん丸に見開いたまま、鞄をつかみ「すみませーん」と、なぜか謝りながら起立する。
空いた席に当然のようにどっかと座り込む十戒老人。そのまま静かに目を閉じ腕を組み、瞑想の姿勢に入るのだった。
感動した。そしてこの老人をして、ここまでの行動を取らせるまでの「席を譲られない不遇な日々」を思った。
「なぜあいつらは、年寄りに席をゆずらんのか!」
「尊敬やいたわりの心は、どこにいってしまったのじゃ」
「もーガマンならん」
そんな忸怩たる思いの果てに、老人はモーゼとなって朝の通勤電車に出現したに違いない。
果たして私もあのような老人になれるのか。
複雑な感動を乗せた通勤列車は、しずかに次の駅を目指すのであった。
(つづく)