2023.11|いちばん馴染んだ〈場〉
クラフトビレッジ西小山で開催されたトークセッション〈双葉郡との関係の結び方〉に行ってみた。
12個の中で、この1年を通していちばん私に馴染んだ〈場〉だった。
いや、企画のテーマを踏まえるなら、「馴染んでしまった〈場〉」と言えるかもしれない。
〈双葉郡との関係の結び方〉は、3月の〈しゅたいって?〉と同じ場所で開催され、同じ方が主催していた。
3月と同じように、カレーも食べられた。
ただ内容は以前と異なり、主催者の方が長らく関わってきた双葉郡についてのものだった。
葛尾村の住まれなくなった家の暮らし方について考える主催者ご本人と、大熊町のキウイ復活に向けた活動をしている方が登壇されていた。
食べ物につられてしまう
結局わたしは、食べ物につられてしまう。
イベント自体の魅力ももちろん大切なのだけれど、「〇〇が食べられますよ」と言われると、すぐに足が向いてしまう。
なんて単純なんだろうと思うけれど、わたしのような人は少なくないんじゃないかと思う。
人間って案外、いろいろな選択を食欲に支配されているのかもしれない。
それと同時に、食べ物は新しい場に足を踏み入れるときの口実にもってこいなのだと思う。
「食べ物が食べられるってうれしいよね」という認識は、コミュニティを越え、ふんわりと共有されているから。
「〇〇が食べられるって聞いたから、ちょっと来てみました」
その言葉の裏には、新しい出会いがほしいという思惑が、日常から少しはみ出したいという思惑が、ひさしぶりの顔に会いたいという思惑が、あるのかもしれない。ないかもしれない。
実際の意図がどこにあるかはどうでもいいのだけれど、「〇〇が食べられるって聞いたから」という言葉で、人は自然と場に溶け込めたりする。
そこから、世間話を始めたりする。
中学生のころ、母に、「ゆづってよく人にお菓子配ってるよね」と言われた。たしかにそうかも、と思った。
「これおいしかったんだけど、1ついる?」
「食べきれないからちょっと食べてくれない?」
「はじめて見たお菓子だったの!食べたことある?」
食べ物を渡すことは、わたしなりのコミュニケーションなんだと思う。
もしかしたらこんな小賢しい手をつかっているのは、わたしだけかもしれない。
でももしそうなら、一度、食べ物の力を使ってみてほしい。
けっこう有効なんだよ。
わたしの手が届くスケールはとっても小さいのだけれど
若いうちって、大きなことを言ってしまいがちだと思う。
例にもれず、わたしがそうだ。
「人を幸せにしたい」
「社会を変えたい」
「平和な世界を創りたい」
大きすぎる
「福島の今を伝えたい」
「教育格差を是正したい」
「戦争の記憶を継承したい」
これだって、まだまだ大きい
わたしが持っている2つの手が届くスケールは、実は、とてもとても小さい。わたしが持っている影響力は、とっても小さいのだ。
トークセッションでお話されていたおふたりの共通点は、はじめに自分が思い描いていた「やりたいこと」が、いつのまにかとても具体的で個別的なものになっていたところにあると思う。
わたしはまだ、大きいものを抱えたままだ。
話が大きすぎて、その意義を伝えようとしても上すべりする。
話が大きすぎて、誰のための何をしたいのか見えてこない。
わたしは手を2つしか持っていなくて、頭は1つしかなくて、1日の時間は24時間しかなくて、人生も残り80年くらいしかない。
それなのに一向に、自分がやりたいことに近づけない感じがする。
そんな焦りを持ちつつ、個別的ななにかに出会える日を待ちつつ、でも結局、大きなものが自分の中に息づいていることを忘れてはならないとも思う。
わたしの手が届くスケールは、とても小さく、狭い。
だからたぶん、具体的に、個別的に行動するしかない。
でも同時に、野望を抱きつづけていたい。
変化
トークセッションは、面白かった。考えさせられた。
被災地やそこを取り巻く語り、人びとの行動や関係性
わたしの関心と隣接していて、これまで考えてきたことと交わる部分がたくさんあって、いろいろな問いを持った。
トークをしたおふたりや進行役の方が上手だったのもあってか、話がすんなりと自分の中に入ってきて、すでにあったものと結びつき、言葉として出ていく感じがあった。
わたし、いつからこんなふうに話を聞けるようになったんだろう。
すこし不安になった。
驚きや感動の感度が、低くなっていないだろうか。
他者の思想ってもっと異質で得体のしれないものなはずなのに、どうしてこんなに「わかった」と思ってしまうんだろう。
勝手に、わかった気になっていないだろうか。
こういうところから安易な賛同や批判が生まれるのかもしれないと思って、少し寒くなる。
わたしは、あなたが真剣に紡いでいる言葉を、すんなりと気持ちよく聞ける人になりたくない。