5月のメモ
漠然とした不安の正体、自我と人格が社会にどれだけ許されるか
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姉に会った。都内のイベントに誘ってくれて、2人で遊びに行った
ここ最近の慢性的な体調不良で電車に乗るのが厳しく、待ち合わせ場所に向かう電車でやっぱり不安になって動悸とか貧血っぽい感じになってしまったのを目を閉じてやりすごした。気づいたことは、一番好きなゲームシリーズの、急行列車に揺られるシーンのBGMを聴きながらだとちょっと楽になるということです
もともと人混みは嫌いだけど、合流した姉におおまかに経緯を話して人がぎゅうぎゅう詰めのところを避けながら楽しめた。
いま仏教をすこし勉強してるという雑談をしたあとで生活の鬱憤を打ち明けたとき、「その人前世がまだ餓鬼道とか畜生道だったのかもね、愚かだね。しょうがないね」とごく自然に言われた。自然すぎて驚きもせずにそのまま「うん」と相槌しただけで流してしまったのが今になってじわじわ来てる。賢い。博識だ。すべての話が通じすぎる。ついでに言葉使いに遊びがあってユーモラス。わたしが挟む質問、冗談、小ネタを引用元の知見も合わせてほぼ拾う。ボケたらツッコむ。でなければインタレスティングなボケを重ねてくる。対話のベストリベロ賞。それでいて未だ見ぬ知識への順応度がすごく高い。おそろしい。これで本人は自身のことをつまらん普通の人間だと思ってるからすごい。今までの人生の大半を姉の近くで過ごしたから他人との会話が大体の場合苦痛なのかもしれない。恵まれていたんだ。姉のおかげで生来興味を持てる人間のハードルがくそ高いってことに最近気づいた。
わたしが気になっていた喫茶店でゆっくり近況などを話し、日が暮れる前に解散した。楽しかった。この会話の感じが生活に足りていなかったのかもしれない。不思議と体の不調がなくなった。やっぱり心の問題なんだろうか
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ひとの嫌なところをひとつ感じると徹底してそのひとの全てを嫌ってしまう傾向がある。
言動とか見た目とか仕草とかそのひとの存在が許せなくなってしまう。なるべく会話を避けて、話しかけられそうな気配を察したら逃げる。興味がないふりをしながら頭の中では思考が悪循環してしまっていた。
ある日ふとこのよくない癖のことが頭によぎって、わたしは本当にその人のことを嫌いになっているんじゃないことに気づいた。自分の弱いところが肥大化されてそのひとに投影してしまっていただけだ。確かに色々むっとすることを聞かされたり、モヤモヤする言い方をされたりしたけど、それらに一々過剰反応してしまっていただけだよな
数ヶ月前、そのひとへの日常の些細な苛立ちが募って心の鍵をかけた瞬間の感覚を今も覚えている。今までずいぶん嫌な態度をとってしまったなあ すごく呪ってしまっていた。自分の憶測とエゴでできた謝意を表すことは、ひとりよがりな罪悪感を勝手になすりつけることだと思うから改めて自分から謝ろうとは思ってない。そのひとにされて嫌だったことの1つだしね
けど、これからは穏やかな気持ちを思い出せそうな気がする。きっとまた嫌なことがあったら、ちゃんとそのひとに面と向かっていやですと言う。そういうときの瞬発力を、ずっと欲しがっている。この先こういう感情が先走ってしまいそうになったらこれを読んで思い出す、自分のための備忘録とします。でもいろいろ嫌だった自分の気持ちのことを否定はしないでいいよ
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久しぶりに会う友人の家に泊まりに行った。カラオケに行ったり映画を見たり、友人の就職祝いにケーキを作ったりした。少し前に約束してて、ずっと遠い未来の楽しみなことのように感じていたけどちゃんとその日が来ました。楽しかった
モーニングを食べに行ったとき、ここ最近のストレスとして上に書いてあることやそれらの具体的な出来事を話した。原因が共通の知り合いだったから言うのをためらっていたけど、ひとつこぼしてしまったらボロボロと口から出てきた。友人は、「自分が」辛いという気持ちと向き合うのに寄り添ってくれた。罪悪感を拡大視して自分を卑下することで無意識的に責任感を手放し許されたような気になれる(それは思考と感覚を麻痺させるだけで、実際は存在しない)その場しのぎの虚無な救われから一切を切り離して自分の辛さを認めることができたと思う。
別れて帰路につき、電車を乗り換えるタイミングで改札を一度抜けた。次に乗る電車が、またその次の乗り換えまでに30分間くらいかかるのと、電車内が混み合っていたのが不安になって軽く動悸がしてしまった。4駅ぶん歩いて、日が傾いてすずしくなってきたところでまた電車に乗った。手すりを握って目を閉じてないと流れていく近景が早くてだめだった
1時間半弱の帰り道を、2倍かけて帰った。歩いてるときも電車に乗っているときも、ずっと意識してないと呼吸がどんどん浅くなっていく。どれだけ深呼吸しても息苦しさがおさまらなかった。呼吸したいのに飲食店とか行き交う人々とかの匂いを強く感じてしまうことが不快で息ができないときが一番しんどい。鳩尾あたりの満腹感や胸焼けみたいな苦しさは、吐き気なのか吐いてしまうことへの不安と恐怖心なのかわからない。内科で処方してもらった胃腸薬を飲んでも根本は解決していないらしい。歩きながら見かけた遊具とか看板とかの写真を撮りながら歩いた。一度降りた駅のホームから見えた鉄塔がきれいだったので写真を撮ろうと思ったら到着した電車で隠れてしまった。乗ろうとしてた電車だったけど、1本見送って次の電車に乗った
本来であれば車窓の景色を眺めているのが電車に乗っているときの楽しみなのに、見逃すのは勿体ない、心苦しい
とにかく何か気を紛らわさせられることが今のところの対処法なんだけど、それを一瞬だけできたのがリチャード・シャーマンが亡くなった記事なのは皮肉だった
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今日見た夢、修学旅行の行動グループ?決めアンケート
出てきたのはおよそ中学の同級生で、リーダーの決めたプランにそって希望者を募る。旅行のコースじゃなくてリーダーのいる部屋ごとにアクティビティが違うらしい。男女問わず。こんなかんじ
・最強の唐揚げを作る 揚げ物のマスターが自炊王の近道
・カードさばきで己を鍛えろ 精神と時の無限ボードゲーム部屋
・パフォーマンスをしたい人向け!〜〜〜のダンスを覚えます!
みたいな 部屋で何するかを、あらかじめ決められたリーダーがそれぞれの得意分野に沿って熱血指導するらしい
どの部屋もとても面白そうでどこにするか迷った
まわりの人たちはたいてい仲のいいリーダーのところに希望を出すけど、わたしは特別親しい人もいないので単純に興味がある内容のところに行きたいが、1人で申し込んだところで自分は良くても、他の親しい人同士で来ている人が気まずい思いをするだろうということで泣く泣く断念。本当に行きたいとこは異性ばっかりだったし といってもどこを選んでも同じ理由で多少浮いてしまうことは明らかなんだけど
体育会系の女の子がリーダーを務める、スパルタ柔軟体操教室に的を絞ったところで目が覚めた
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職場の壁
窓から差し込む朝日がしろい壁を照らしていてきれいだと思った
目から入ってくる情報はすべて光の粒の集まりなのに、こういう明暗とか色彩の固有色とのコントラストを光だと認識するのはなにかの文化の影響なんだろうか、それとも明確な光源の存在を無意識中に捉えているからかな
たとえば柄のついたタオルを濡らすと色が濃くなって見えたりするけど本来の色はどっちなんだろうとか考える
黄色い物体が黄色いんじゃなくて黄色を反射させる物体だから黄色く見えるんだという話を聞いて、本来こうなんだろうかとグレースケールの世界を思い浮かべてみるとか