美術館紀行#1

『六本木クロッシング2022展:往来オーライ!』展 森美術館

先日一時期お世話になった教授と美術館デートに行った。その先生は現代アートを専門としている方でもともとキュレーションなども行っており、自身のキュレーション記録を記した著書もある。
その先生と現在六本木・森美術館で行われている『六本木クロッシング2022展:往来オーライ!』展に出向き、それぞれの意見を交換しあった。まずこの「六本木クロッシング」展はシリーズ化されていて、2004年より森美術が3年に1度共同キュレーション方式で日本の現代アートシーンを写す展覧会として誕生し、本展はその7回目であった。特に今回の展覧会では「コロナパンデミック」の存在が大きかったのは言うまでもないだろう。「それまれまでの当たり前、が当たり前ではなくなった」「新たな生活環境への順応」他にもいわゆる「コロナ前」との日常生活のギャップに息苦しく感じた日々もあっただろう。それらの状況がアートというものを通して、世に訴えかけようという試みの展覧会であった、というところに本展の特徴が置かれていた。以上の本展覧会の概要を踏まえて、「アートの変容」を感じた。この言葉に付随して起こる問題点として「新たなアートの受け止め方」言い換えると、「感情と論理の受け止め方のギャップ」を強く感じた。特にそれは私よりも先生の方が感じているように思えた。
先生は来年定年を迎える歳になる。となると、彼は数えられないほどの作品、アーティストと出会い対話をし、様々なアートムーヴメントも見てきただろう。そんな先生が発した言葉は「日本の現代アートが廃れた」という一言であった。
特にそのように感じた作品の特徴として3点ある。
1)アートパフォーマンスの普及
2)インスタレーション作品などの二番煎じ感の否めなさ
3)写真作品の作品の切り取り方の変容(日常生活の断片→造形)
主にこの3点であった。1)のアートパフォーマンスはフラッシュモヴなどが想像しやすいだろう。これをアートの一環として解釈するのはまた別の議論であるが、この議論点としてアートパフォーマンスというアート形態が「その場での体験型アート」である。従来のアートは永続的なもの、例えば過去に描かれたダ・ヴィンチからゴッホ、ピカソ…etc.絵画作品などは現代にも受け継がれ、価値が廃れない「永久的なもの」として現代に受け継がれている。
それに対してアートパフォーマンスは「半永久的」なのだ。その場限りのアートであり、現場を動画で撮影しても間接的にその場の雰囲気、状況諸々をアートとして感じなければならない。それにはどうしても限界があり、アートとしての要素はどこにあるのか、というものもパフォーマンスによって生じる。またそれはドキュメンタリー映像であり、芸術性が低いという点がそのギャップを感じてしまう原因であると先生と意見が一致した。加えて先生は「これをアートと言っていいものだろうか。」などと呟いてた。これに対する私の答えは後に述べていくこととしたい。2)これは簡単に述べるとどの作品もどこかで見たような作品が並んでいたということ。本展で展示されていた作品は、それまでの現代美術を無理に踏襲しようとして「頑張ってる感」がどうしても否めなかった。そう感じた特徴として少々抽象的な理由になってしまうが「パンチ、インパクトがない」というところだろう。鑑賞していて斬新さがなかった。なので観ていても「ふ〜ん。」というだけだった。3)これは上記にも通じることであるが、作品の形態が過去と現代で変わった。ということだ。最初の方に展示されていた現代のアーティストの写真は、アーティスト自身の伯母をずっと正面から撮り続けたものである。他の現代アーティストの写真は自然情景を写したものであった。どちらも先ほどのようにドキュメンタリー要素の強さや「ただ綺麗な写真」であったり、芸術性というもの(斬新さ、メッセージ性)を感じ取ることができなかった。それを踏まえ、本展では少し時代の古いアーティストの写真作品も展示されていた。彼の作品では日常風景の1コマを写し撮るものであった。それらは前者の現代アーティストの特徴に挙げられる、造られたもの、解像度の高いもの、などではなく毎日何気に目にする情景を彼の視点を通し、その一瞬を作品として認知し切り取ったのである。そこに芸術性の有無を感じたのである。以上のことを踏まえて、では「私が否定したアートはアートではないのか」という問題になる。先生は「アートなのか?」など小さな声で呟いていたが、私は全く先生と同じ意見にはなれなかった。
というのはアートは常に変容してきたからである。例えば、思想を伝えるために生まれた宗教画から、権力を誇示するために活躍した宮廷画家。そして外に道具を持ち出すことができるという、技術的な成長の元で生まれた印象派。から時代を飛んで現代の混沌とした世界をそのまま投影したポップアートや現代アート。このようにアートは常に変容してきたのである。かの有名なゴッホだって、彼が活躍した当時は価値がなかったし、コンセプチュアルアートを語る上では欠かせない、デュシャン の『泉』ですら「アートではない」というのが物議を醸し、それが彼の名を一気に博すこととなったのである。

正直私は今回のアートパフォーマンスの登場に強い関心を抱き、賛成の声をあげるつもりは全くない。しかし、この新たなアートへの受容の必要性は常に心に留めておきたいし、審美眼を磨くという意味においても否定から入るのは良くないはずである。また今回の作品らは単に私の趣味とは違ったのかもしれないしそもそも評論をする上で主観的な感想は必要外であり、語るのは自由だがそれをもとに今存在するアートを問答無用に否定するのは間違っている。しかしこれが先に述べた「感情と頭でのギャップ」なのではないだろうか。そして私が随所に述べた「芸術性」とは何なのだろうか。今後とも追求していきたい。

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