- 筋肉で複式簿記を付けて審判の日に備えるべし- 「帳簿の世界史」を読んだ。
「帳簿の世界史」を読み終えた。この本は、会計と密接な関係があった宗教、国家支配体制、工業化、巨大資本といった歴史のトピックを渡り歩きながらも、話の中心はあくまで会計(複式簿記と会計監査)にある。
僕は自分の会社をやるにあたり、税理士さんのすすめもあり、自分ですべての帳簿を付けている。記帳、仕訳、決算対応どれも、コストであるといえばコストだが、その情報源となる収支については、確かに1人で稼いで使う額など”たかがしれている”。なので、格好の勉強材料というわけだ。確かに、僕は真剣に会計に取り組まないと、いろいろなリスクを抱えるわけだし、将来的に誰かに会計を任せるとしても、その誰かの仕事に不備があったとき、または万が一不正を働いたときに、見抜けなければならない。
さて、皆さんの中で、複式簿記をご存じの方はどの程度いらっしゃるだろうか。複式簿記は、いわゆるお小遣い帳のような単式簿記と違い、大雑把にいえば、収支を借方と貸方を明記する記帳の仕方である。単式簿記では何故だめなのか?それは、単式簿記では”現在の資産”、つまりストックしか把握できない。複式簿記ではストックの内訳とキャッシュフローが表現できるのである。複式簿記が生まれた背景について、この本では、イタリアの商業都市国家において、イスラム圏との交流から数学が発展し、その中で貿易業での会計のために生み出されたと書かれている。これは、13世紀末、意外に最近?なのである。余談であるが、初代ローマ皇帝アウグストゥスは、複式簿記ではないが、精緻な帳簿を作り、「ローマ市民のために年間いくら寄付した」というのをいちいち石碑に刻ませていたということだ。まったく、古代ローマは本当にチートじみており、大抵の異世界歴史物もびっくりだよね。
さて、複式簿記が生まれ、ストックとキャッシュフローが整理できるようになったわけだが、この複式簿記を正確にもれなく記帳し、仕訳をし、事業ごとの元帳に転記し事業の収支を正確に把握することは、歴史上簡単ではなかった。中世イタリアの商業都市(フィレンツェなどは役所で複式簿記が義務づけられていた)や銀行も、この素晴らしい発明を有効活用できていたかというと、必ずしもそうではないようだった。歴史が進み、絶対王政国家、革命、新大陸開拓、巨大資本を必要とする鉄道事業、複雑怪奇な会計が必要な現代の証券会社・・・すべてにおいて、会計とその監査が万全に機能していたわけでは無かった。
とりわけ面白いのが、宗教との関係性だ。カトリック的な価値観でいえば、お金勘定は宗教的に”良くないもの”とされていた。この会計という行為は、そのお金を扱うことについての懺悔帳のようなものであり、複式簿記をしっかりつけていた中世の商人の信仰に誠実な生き方と会計についてのトピックが、まさに「reckoning」の意味に繋がっている。この単語は、決算・精算を表す単語で、同時に宗教的なコンテキストでは、”最後の審判”を意味する。この本の原題も「THE RECKNOING - FINANCIAL ACCOUNTABILITY and the RISE and FALL of NATIONS-」である。本のタイトルは「帳簿の世界史」であるが、あまり原題には即していない。
宗教的な懺悔と会計が薄れていくにつれ、今度はAccountability、会計責任についての比重が大きくなる。フランス革命の直接的なキッカケとなったバスティーユ襲撃は、ルイ16世の財務長官であったネッケルの罷免に関係して発生しているが、このネッケルは国家の会計を公表するという史上初めての試みを行った人だ。このように、宗教だけではなく、政治についても、会計責任というのは深く関わっていたのだ。
というようなエピソードが本書にはたくさん書かれている。読むにあたり、中世史、近代史について軽く復習しておくと、スムーズに読めるだろう。特にフランス革命については、通称長谷川版「ナポレオン」がオススメである。北斗の拳めいた絵柄で、フランス革命前後とその後のフランス帝国の興亡を書き切らんとしている、痛快な歴史コミックだ。若干史実と違うところもあるので、そこは自己責任で。