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今日は香淳皇后の御命日

本日、6月16日は平成12(2000)年に崩御された
香淳皇后のご命日に当たり、
皇居・皇霊殿や武蔵野東陵(東京・八王子市)で
「香淳皇后例祭の儀」が執り行われます。

香淳皇后は昭和天皇の皇后、
上皇陛下や常陸宮殿下のお母さま、
今上陛下や秋篠宮殿下の
お祖母さまに当たる方です。

香淳皇后は明治36(1903)年に
久邇宮邦彦王・俔子(ちかこ)王妃の
長女としてお生まれになり、
良子(ながこ)と名づけられました。

良子女王は大正7(1918)年に
皇太子裕仁親王の妃に内定し(15歳)、
大正10(1921)年の
宮中某重大事件を経て(18歳)、
大正13(1924)年に
摂政宮裕仁親王とご成婚されました(21歳)。
裕仁親王は結婚を機に口ひげを生やし、
妃のことを生涯「良宮」(ながみや)の
愛称で呼ばれたそうです。

大正14(1925)年には
第一皇女の成子内親王をご出産されました(22歳)。

そして大正15(1926)年、
大正天皇の崩御と昭和天皇の即位に伴い、
ご自身も皇后に即位されました(23歳)。

昭和2(1927)年には第二皇女・祐子内親王を
ご出産されましたが(24歳)、翌年に夭折。
皇后陛下は悲しみから
同じ大きさの人形を作らせたといいます。

昭和4(1929)年に第三皇女の和子内親王を(26歳)、
昭和6(1931)年には
第四皇女の厚子内親王をご出産されました(28歳)。

そして昭和8(1933)年、
第一皇子の明仁親王(上皇陛下)を(30歳)、
昭和10(1935)年には
第二皇子の正仁親王(常陸宮殿下)を
ご出産されました(32歳)。

その後、昭和12(1937)年の
日中戦争から日本が戦時体制へ移行していく中で、
良子皇后は
「国母皇后」と呼ばれるようになりました(34歳)。
昭和20(1945)年に日本が敗戦を迎え(42歳)、
昭和21(1946)年から昭和天皇の戦後巡幸に
同行されるようになりました(43歳)。
日本が主権を回復した昭和27(1952)年には、
明仁殿下の立太子礼も行われました(49歳)。

そして昭和64(1989)年、
昭和天皇の崩御と皇太子殿下の即位に伴い、
長子皇后は皇太后となられ(86歳)、
平成12(2000)年に崩御されました(97歳)。
お印の桃にちなんで雅号を
「桃苑」と称されたことを踏まえて
日本最古の漢詩集『懐風藻』の詩から
言葉を選りすぐり、
「香淳皇后」と追号されました。

歴代皇后のなかでも香淳皇后の在位(62年14日間)は
歴代最長であり、
神代を除いて歴代最長寿(97歳102日)です。

香淳皇后が崩御されたとき、天皇陛下(上皇陛下)は
「御誄」(おんるい)
として追悼文を読み上げられています。

「明仁謹んで御母皇太后の御霊に申し上げます」

「在りし日のお姿や明るいお声は今もよみがえって
日夜心を離れず、思い出は尽きることがありません。
哀慕の情はいよいよ胸にせまるものがあります」

「長き歳月、昭和天皇をお助けになり、温かく、
香しくましました在りし日のお姿は
今も深く心に残っております」

「お慈しみの下にあった去りし日々を思い、
寂寥は深く、
追慕の念は止まるところを知りません。
誠に悲しみの極みであります」
(宮内庁HP参照)

来年は「昭和100年」の節目の年を迎えます。
特に20代で皇后となり、30代で「国母」と仰がれ、
40代で史上初の敗戦・占領を経験されるなかで、
昭和天皇とともに日本を背負われた
香淳皇后のご経験は想像を絶します。

本日は激動の日々を経て
復興を遂げた昭和の御代に、
昭和天皇をお支えし続けた香淳皇后のご事績に
思いを馳せたいと思います。
(兎角)

日本令和研究所メルマガR060615より

一般社団法人日本令和研究所


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