岡本セキユと演じること(『ワイルド蛍をつかまえろ』稽古場日誌2)
「芝居はね、労働だよ。」
柄本明がバラエティー番組に出ていた。その時喋っていたこと。
当時まだ若手だった加瀬亮が「柄本さん、芝居ってなんですかね?」とぶつけた。20代もそこらでこんな問をぶつける加瀬亮も加瀬亮だが、柄本明の返しが凄かった。
「君は芝居を芸術だとかなんとか、そう思っているんだろう。そして僕にそう言って欲しいんだろ?」
黙り込む加瀬亮。柄本明はこう続ける。
「芝居はね、労働だよ。」
これは、あるウェブ記事でのインタビュー。
「俳優とは、どのようなお仕事でしょうか。」インタビュアーが問う。
「そこに書いてあることを言うんですね。それも、他人が書いたことをね。で、それを、別の他人が見てるんだね。」
同じ番組。
「僕の劇団のやつが言ってたことなんだけどね、自分の職業に後ろめたさを感じてない奴は、ダメなんだよ。」
つまり柄本明曰く、芝居とは単なる労働で、俳優という職業は書かれたこと言うだけの仕事。
そして、そんな自分の仕事に、俳優は後ろめたさを感じるべきだという。
柄本明は別の場所でこうも言っている。
「俳優は、人前でも泣いたりするんですよ。恥ずかしいですよぉ。」
「恥ずかしいなぁ」
やっとの脱稿を終えて本格的な稽古開始。
と言いたいところだが、岡本は、ウダウダしている。
我々演出助手やスタッフ、稽古場に来てくださる見学人を待たせながら、ウダウダと、稽古をしない。
稽古は19時から始まり、施設の関係で21時半には完全撤収。
とすると稽古時間はわずか2時間半。
の内、はじめ1時間はおしゃべりとグチである。
「なんとなく不安」と始まり、「この台本面白いかな?」と謎の同意を求める。
「うん、面白いよ」と言うと、「どこが面白い?」と詰めてくる。
どこそこが面白いと懇切丁寧に説明してやると「じゃあ面白そうな顔して!笑って!みんなが思ってるより、俺は不安なの!」と暴れる始末。
そんなこんなして時間は30分、1時間と過ぎていく。
ようやくノソノソと椅子から立ち上がり、つぶやく。
「あー、なんか、恥ずかしいなぁ」
お芝居の恥ずかしさについて
ということで、今回はお芝居の恥ずかしさについて話します。
僕も一応お芝居をかじっているんですけど、人前で演技するのってとんでもなく恥ずかしいことなんです。
だって、思ってないことをまるで思ってるみたいに言って、見えてないものを見えてるみたいに言って、挙句ちょっとかっこいい台詞なんか言ってみて(しかも自分でもかっこいいセリフだな、なんて思って、ちょっとカッコよく言ってみようなんて自意識が最低に恥ずかしいわけです)。
じゃあなんでやってるんだって話になるんですけど、それは一旦置いておくとしましょう。
そう結論を急いではいけません。
結果だけを求める人に善人はいないのです。
結論だけで済むならミステリー小説は事件調書だし、食事はただの栄養摂取だし、セックスはただの生殖活動なのです。
過程にこそ本質が宿るのです。
もう一度言わせてください。僕は演技をします。
そして演技をすごく恥ずかしいことだと思っています。
多分岡本もそう思っているでしょう(じゃなかったら、人集めといて「恥ずかしい」なんて言って稽古を遅らせるはずはないんです)。
でも、もっと恥ずかしいことがあります。
それは恥ずかしげもなく演技をしている人を見たときです。
いやいや、良い俳優はみんな堂々と演技をしているでしょう、となるかもしれません。
それはそうかもしれません。仰っていることはわかります。
でも何故でしょうか。
僕が良い俳優さんだなぁと思う方々は皆さん、自信満々に演技をしていないんです。
どこか控えめで押し付けがましくなくて、ともすればセリフを言わされてるような。
それでいて言わなきゃしょうがないから言ってという、諦めにも似た感じ。
そんな印象を受けるのです。
どこまでも自我を捨てて、他人が書いたセリフを読むことに従事する、まさに"労働"なのです。
シーンを終えて、役から降りたときの、あの苦虫を噛んだような顔は一体なんなのでしょうか。
反対に、すごく楽しそうに、あけすけにセリフを歌い上げるような人たち。
まるで俳優こそが天職であるかのように、自分に酔いしれて、格好つけて、見せ付けるようにして演技をする人たち。
自分の裸体をなんのためらいもなく開陳しているような人たちが、僕はすごく苦手なんです。
なんといいますか、”重い”んです。
僕は何度お芝居をやっても、どんなセリフをいただいても、「あ、すんません。ちょっとお芝居なんてやらせてもろてます」というような姿勢でしか演技に向かえないのです。
でも、そうしてセリフを読む時、ある線を踏み越えた瞬間にフワッと体が浮き上がることがあるんです。
自我の重さがなくなったように、体が勝手に動き出す瞬間があるんです。
その瞬間がとても気持ちいいんです。
そして、演技に恥ずかしさを感じない人たちにはこういうことは起こらないのではないでしょうか。
自我の重みに自覚的じゃない人間は、真の自由を手に入れることはできないのです。
瞬間移動
岡本はすごく恥ずかしそうに演技を始めます。
節目がちになって、ため息をついて、すごく嫌そうに喋り始めます。
でも喋っていくうちに、言葉に体が乗せられていくんです。
言葉のままに体が飛んで、体のままに言葉が跳ねる。
しばらくすると岡本は、通常動けない速さで動き始め、跳べない高さまで跳び上がり始めるのです。
僕は、ある日の稽古で、岡本が、文字通り”瞬間移動”するのを見たんです。
舞台の上手にいる人物と下手にいる人物を演じ分ける。
舞台の向かって右端でセリフを喋り、左端に移動してセリフを喋る。
この右から左への過程が、見えなかったんです。
右で喋っていた岡本は、次の瞬間、左で喋る岡本となっていたのです。
結果だけがそこに残っていたんです。
ではこれは、岡本が上手から下手へ瞬間移動しようと意図して出来たことなのでしょうか。
多分そうじゃないんです。結果そうなってしまっただけなんです。
そして、結果そうなるためにはーすごく込み入った逆説的な言い方になってしまうのですがー結果だけを追い求めていてはダメなんじゃないでしょうか。
シーンが終わると、岡本はまた恥ずかしげな、バツの悪そうな顔をします。
「今のところ面白かった?」
「面白かったよ」
「どう面白かった?」
「上手で喋ってたでしょ。で、次の瞬間、下手で喋ってた。」
「え、それって面白い?」
「面白いだろ。」
彼はまだ、自分の作品に自信を持てていないようです。
彼が自信を持てるのは、満席の客席と拍手する皆さんという結果を目にした時なんだと思います。
どうか見に行ってやってください。
ご来場お待ちしております。
参考文献
TBSテレビ『Mr.スーツマンSHOW』(2020/7/4)
ほぼ日刊イトイ新聞."第1回「人が書いたことを言う仕事」".21世紀の仕事論。”(2016).https://www.1101.com/21c_working/akira_emoto/index.html
シモーヌ・ヴェイユ著、冨原 眞弓訳(2017)『重力と恩寵』岩波書店
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