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読書家が語る読書についての本『読書について』(小林秀雄)

読書で金を稼ぎたい。これは読書家の夢である。

ページをめくる毎に本の定価の1%、金が空から降ってきて欲しい。
派手な生活に憧れはないから、必要以上の金は要らない。
安酒を買い、塩を舐めては此れを肴に、酔いては寝つつ、日々を過ごす。
せめて駄馬のように膝を震わせ、日銭を稼ぐあの無意味な時間を、読書に充てれれば十分なのである。

しかし銭とは労働の対価であり、労働とは、雑に言えば、誰かのためにために手足動かすことである。俺が畳に横になり、煎餅片手に本を読んで、一体誰が喜ぼうか。
そんな訳で読書家共は、本を読むことで金を稼ぐことの無理を悟り、今度は本を書くことで金を稼ごうとする。
いくらか本を読んだ者は、作家に対する畏怖、憧憬、そして「あれ、俺も書けんじゃね?」という根拠不明な自信を必ず抱く。
その多くはWindows初期インストールの、未だアップデートしてないWordを開き、白紙のページと小一時間対峙したのち、挫折する。
自分には書くべきことが一つとしてないという事実。
自らの人生の陳腐さを知り、それから二度とWordを開くことはないのである。

作家と読者。その境目には底の見えない谷間がある。
こっちの崖からあっちの崖はわずか大股一歩分にしかみえない。
しかしその谷間を飛び越え、向こう岸に渡ることができた者が、一体何人いたであろうか。

小林秀雄は読書家だった。それも上級の読書家だった。

彼は本を読み、そこで得た喜びを批評という手段で昇華した。
自らの言葉で、新たな読者を生み出し、銭を得ることに成功した。
彼は読書家で、そして作家だった。小林秀雄は僕らの夢であった。

小林秀雄は、どうせ読むなら一人の作家の全集を読むと良いと言う。

全集を読めば、その作家がどういう人間で、何を考え、どう生きたのかがわかるのだそうだ。

僕は、理屈を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしている内に、作者に巡り合うのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。こうして小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかり握ったという具合な解り方をしてしまうと、(中略)その作家の人間全部が感じられるというようになる。

pp13

小林にとって読むことは、その人を理解することであった。
そして人を理解するということは、エゴを離れて他人に時間を明け渡すということであった。
それは全くもって経済観念から離れた行為であり、もののわからぬものからは無意味で、不合理で、無駄なことに思われるであろう。

これは小林秀雄をもって読書の達人と言わしめたフランスの批評家サント・ブウブからの引用

「読め、ゆっくりと読め、成り行きに任せた給え。遂に彼等は、彼等自身の言葉で、彼等自身の姿を、はっきり描き出すに至るだろう」

pp15

近年の速読ブーム、コスパ至上主義に対する反論。
要約ブログは文学か。
ファスト映画は芸術か。
切り抜き動画で笑えるか。
お前はそれで読んだつもりか?お前はそれで観たつもりか?

インスタントな食生活は、数多くの肥満患者を生み出した。お湯で3分の簡単料理が、健康寿命を3年縮める。
クリック1つで2時間分のコンテンツを、たったの5分で摂取できるようになった僕らは、ある種の生活習慣病を患いつつある。
僕らは最近いつ、腹の底から笑っただろうか。泣いただろうか。喜んだだろうか。
僕らはちゃんと"彼"を理解できているだろうか。

僕らはゆっくりと、読まねばならない。

退屈さも、冗長さも、難解さも取り込んで、それをオモシロがらなければならない。

深い霧の向こうから、男がゆっくり歩いてくる。
男は緩慢な動きで、右に左に蛇行を繰り返しながらこっちへ向かってくる。
震える寒さ中、僕らは待ち続けたが、一向に男の顔は見えてこない。
なぜ僕たちは彼を待っているのか、どうして彼はもっと急いでこちらにきてくれないのか、なぜ僕らの方から歩み寄ることができないのか。
そんなことはもうとっくに忘れてしまった。

僕らは待ちくたびれて、観念して、その場に座り込んでしまう。
男はそれでもゆっくりと、にじり寄るように、歩いてくる。
僕たちは、しだいに眠気に襲われる。
薄れゆく景色の中、霧の中でぼんやりと立つ彼の影に目をこらす。
少しだけ、その影が大きくなっていることに気づく。

僕らはもう少しだけ、彼を待ち続けなければいけない。

私は決して馬鹿では無いのに人生に迷って途方に暮れている人の方が好きですし、教養のある人とも思われます

pp62

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