夏の朝って、夕方みたいで不思議に綺麗ねat4:45
その不思議に綺麗な朝日の写真は、どうやったって「夕日」に見えてしまう。
眠れなくて、風呂場の排水溝を掃除して、ガスコンロの油汚れを綺麗にして、押し入れに詰め込んだ冬物の服やらなんやらを綺麗に整理しながら、そこに詰め込まれたもう使われることのない色鉛筆や扇子や定形外封筒の山なんかをゴミ袋にまとめて。
断捨離で生まれた空間には、畳の上で巨塔をなしていた本を並べ、押入れを本棚として有効活用することにした。
今まで塔のせいで日の目を浴びずに埃が溜まっていたところは箒で掃いた。
せっかくだから、雑巾で畳全面を水拭き、その後に乾拭きした。
畳の上に大の字になって寝転がる。
網戸の隙間から真夜中を引きずったような風が入ってくる。
窓の外が青白い。
小さい時に地元のおじいちゃんおばあちゃんが書いた水墨画の展覧会を見に行ったことがあった。
笹の葉だったり、険しい山々や激しい滝だったり、子供が見るにしては渋い絵ばかりだった。正直よくわからなかった。
けど、灰色の墨で描かれたその山を覆う空がなんだか青白かったのを覚えている。
灰色。なんだけど、青白かった。
子供心に、そういうことってあるんだなぁ、とおもった。
目が冴えている。体はだるい。脳は動きが鈍い。
匍匐前進で窓の方までにじり寄って、外を見上げる。
寝転がったままだと、ベランダの屋根が邪魔をして空がよく見えない。
窓枠につかまって全身を支えて起き上がる。
網戸を開けて、裸足でベランダに出る。
朝日が空を照らしていた。
雲の向こうの太陽は、空に光を反射させ、青白く鈍いその空を、まばゆい赤さで染めていた。
朝に似合ない茜空に、涼しい風が吹いていた。
僕は長いこと(実際は30秒くらいかもしれない、1分ぐらいか、5分ぐらいかもしれない。でも体感的にはとても長い時間)ベランダで立ち尽くしていた。
柄にもなくiPhoneで写真を撮った。
それがこれ。
これがそれ。
残念ながら、僕が見た本当の朝日はこれじゃない。
こんなに雲は赤くなかった。焼けるような赤じゃなくて、もっと涼しい赤だった。空もいくらか濁っていた。
電線の隙間からは太陽の黄色い光線がうっすら見えて、向かいの家の屋根のへりをつたって、日が少しずつ登っていく。そんな予感みたいなものがあった。
遠くでは犬の鳴き声がして、ご主人たちに朝を告げている。
雀の鳴き声が集まり始め、遠くでは始発電車が線路を擦る音が聞こえる。
雨戸を開けたときの鉄の軋む音が朝の忙しさを感じさせる。
それでも空はまだ闇夜をずるずると引きずった青白さを残していて、その青白さは眠りを知らない僕の両目を優しく冷やしてくれていた。
写真に映ったその朝日は、赤々と発色された夕日だった。
画面に映し出された光学的な赤さは、僕が観た赤さとは程遠かった。
その赤は冷たい空に滲んでいくような暗い涼しさがあったし、空気に混じって僕の体を包んでくれていた。
5:25
もうすっかり朝だ。
セミが高鳴り、日光が家を焼く。
窓を閉めて冷房を強設定で稼働させる。
汗がどんどん吹き出てくる。
ベタベタする服を脱ぎ捨て、風呂場へ向かい、シャワーの蛇口をひねる。
冷水を頭からかぶりながら目をつぶる。
夜の心地を引きずった、涼しいまどろみの朝はもうない。
あの朝日を誰かに見せることはできないし、僕があの朝日を見ることももうないかもしれない。
マイクロチップに残された後、クラウドサーバーに移管されたあの朝日はもはや僕の見た朝日ではなくて、毒々しい上に陳腐な、複製可能な朝日でしかないんだ。
でも、このまぶたの裏には、まだあの空が広がっている。
この朝日は、僕だけのもの。
蛇口を15度ほど右に回す。
シャワーヘッドから勢いを増して放出された冷水が脳と眼球を冷やす。
水圧に押されるように頭が垂れ下がっていく。
体が重い、まぶたも閉じてしまいそうだ。
あぁ、やっと眠くなってきた。
今日は休みだ。思う存分、寝ようとおもう。