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自己紹介(という名の自分語り)
はじめまして、note始めてみました。
noteのようなメディアで、ずっしりとまとまった文章を書くのは、腰が重く、中々抵抗があった。とはいえ、忙しない日々の中でSNSで投稿する、短文では、しっかりとした気持ちを伝えるには心もとない思いもあって、ようやく重い腰を上げて、初投稿することにした。
自己紹介といっても、箇条書きで特技とか好きな食べ物を紹介する形式ではなく、自分の半生を振り返りながら紹介する形式でしてみようと思う。
幼少期~小学生
僕が生まれたのは、21世紀の最初の年、掛川市という静岡県にある人口10万人くらいの市だった。周りは、山と川、田んぼとか畑、茶畑とかばかりで、子どもの頃の遊び場も大体そういう場所だった。小さい集落内で同い年の子供はいなくて、少し下の近所の子供は騒がしくて、あんまり馴染めなかったので、外で遊ぶときはバッタとかカエルとか、そういう類の生物と戯れていた。祖父に買ってもらった昆虫や鳥、魚、動物の図鑑を毎日のように読んでいた。
小さい頃から母親に図書館に連れられていて本は大好きだった。はじめは図鑑を絵画のように眺めて楽しんでいたけど、小学生になると読む本の種類も増えて、図鑑から学習冊子、子供向けの絵本から、児童書、青い鳥文庫や角川つばさ文庫とかを読むようになっていった。
一方で、外で活発に遊ぶと言うのは、僕の中では得意分野から外れてしまうかもしれない。幼稚園から小3まで体育教室に通っていたけど、小3の最後の発表の場で皆より1段低い7段で跳び箱を披露したのを覚えている。小2から始めたスイミングスクールも、小5の初めで嫌になりすぎてやめてしまった。結局穏やかに続いた習い事は小3から中1の春までしていた習字だった。とはいえ、これらの経験も体育で恥ずかしい経験をする機会を少し減らしてくれたかもしれない。親には感謝している。
小学6年と中学
なんとなく自分の自我が確立したのは小学6年生のときだという思いがある。大きく2つの訳があって、1つにはWiiUを購入して、自由にインターネットに触れられる環境が得られたこと。2つ目には、インターネットを通じて、架空地図という今の自分に繋がる環境が得られたからだ。(架空地図のことは、又、場を改めて紹介しようと思う)
中学になると、ソフトテニス部に入った。今は、部活動の地域移行とかブラック部活動の廃止が叫ばれる時代なのかもしれないが、私はギリギリそのムーブメントに間に合わず、土日通じての1日練の部活動に精を出す、というより、耐え忍ぶ生活を過ごすことになった。
入ったテニス部は、地区大会で連続優勝するようなちょっとした強豪校であったが、その中で私は下から1,2の下手さであったのも余計に苦に拍車をかけていた。顧問も新米の教師に変わったタイミングで、前の顧問より練習量を増やしていた。なんとか耐える中で悔しい思いもしたが、出会った人の中には頑張りを見ている人もいて、優しい声をかけてくれた人もいたと思う。そんな経験は、今の自分に少しでも糧になっただろうか。
高校
高校受験は地元の進学校を受けた。勉強は得意なほうなだったので、自分が落ちる心配はあまりしていなくて、周りの友達が落ちるんじゃないかというほうが心配だったのを覚えている。
部活は運動部の路線はやめて、文化部に絞ることにした。勝ち負けが存在しなくて心穏やかに過ごすに相応しいホワイトな部活を探して、中学の先輩の誘いもあってパソコン部に入部した。高校デビューというような大そうなことは企てていなかったけど、高校始まって最初の文化祭を楽しんだり、学校から帰って家でゆっくり本とアニメを読んだり、今の自分を形成する大事な時期だったと思う。部活も、高2になると顧問が変わって、色々経験する機会になって面白い経験が出来たと思う。
高校2年で理系に進むも、理系科目より文系科目ができるようになって文転した。先生にも止められたけど、なんだかんだ地理や歴史が好きだと思ったし、無理して理系にいっても大変で苦しい気がしたので、文系に変えた。結局、文系の大学でも大変な思いをするのだけど、大学受験は高2から着実に準備を進めたことで上手くいき第一志望の名古屋大学に合格した。
大学1~2年
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大学時代は世界的なパンデミックと共に始まった。全国の学校が休校し、大学の入学式も延期になった。サークルの新歓はおろか、直接学友と話したり、授業を受けたり、待ち望んだ一人暮らしもしばらく取り下げとなった。いつ終焉を迎えるか分からないなか、慣れない大学の課題に翻弄される1年目が終わった。
大学2年になると、少し対面授業が始まる。1年の秋に入った地理系サークルも1回活動しただけで設立した先輩が離反して無理になり、アルバイトの面接も落ちたので、ノンバイサー(大学生でアルバイト・サークルのどちらもしていない人のこと)として自尊心を傷つけられて過ごしていた。
大学2年の後半になって、地理学研究会の再興の機運が高まり、同学部の地理学専攻の後輩や同級生と地理研の再結成に至った。アルバイトも短期のものをはじめたりして、少しお金がたまったので、旅行に行くことにした。コロナ禍も少し収束して旅行に行きやすい雰囲気もでていた。行ったことのない場所、なるべく遠い場所、ということで、九州へ。帰路でフェリーに乗って、これまた初めて行く神戸と大坂も寄って5泊6日の旅に。
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大学時代に数多く出会った旅行好きな人からしたら、ありふれた旅行なんだろうけど、大学2年の終わりの旅は今後の不安とか全部忘れてマジで楽しい旅行だった。初めて自由になれた気がした。それは私が地理が好きで初めての土地を特別な視点で見られたからかもしれないし、単に遠い土地へ行った解放感からかもしれない。とはいえ、大事な思い出には違いない
大学3~4年
大学3年、世の学生は、そろそろ就活を始める時期だ。理系か文系でも相当迷った私だけど、民間か公務員かでも相当迷った。公務員を受けるには試験がいるし、講座を受けるのがベターらしい。試験は得意だし、講座に入ってしまえば、流れに乗りやすい。そう思っていた。とりあえず、夏休みにインターンを官民一つずついった。秋には青森県八戸市で地理学専攻の野外実習で、地元の商工会議所の企業の人に話を聞いて調査をした。1人で研究を完成させるので、中々大変だったが、ついでに仙台や秋田、新潟も旅行できたので一石二鳥のイベントとなった。
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3年の春からTOEICの勉強もしていて、秋からは公務員の勉強もした。勉強は忙しいが、秋になると必要な講義の数は減っていた。空いた時間、平日に自転車で岐阜や三重の県境まで自転車で旅をしたりした。一日中、人々が学校に行ったり、仕事をしている中で、無心で自転車を漕ぐ。その合間に、土地土地の営みや大きな川の流れを見ていると、生きている実感を得られた気がする。
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4年、就活と卒論の準備を併行して進める。民間の就活が終わる中、内定は8月中旬まで0だった。試験は難なくクリアできた。問題は面接、コミュ力の問題だった。なんとか8月末に内定をGETしたが、それまでは本当に不安だった。
卒論は山間部の民俗芸能について調査した。コロナ禍で多くの文化的活動が不要不急の活動として自粛されたこと、日本の慢性的な過疎化・少子化といったトピックに関心があって、困難な環境下で文化の灯火を絶やさないようにする人たちに興味を抱いたからだ。頑張ったとは思うけど、十分な調査、論理的な考察ができたと胸を張っては言えない。大学院に行きたい気持ちもあったけど、行かなくて良かったな…、厳しかっただろうな…とも感じた。
卒論が終わったのが2023年の末。そっから卒論の修正もあったり、受けてた中国史のレポートを書いたりして、学生生活最後の時間は、架空地図の創作活動と東海地方の行けてない都市旅行と瀬戸内旅行に費やした。
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2024年春~今
働いて3か月。心療内科で鬱状態の診断がでました。これからどうなるんだろう。
最後に
自己紹介の最後がこんなに心細いのは苦しいし、初回なので、肩ひじはりすぎたかもしれないけど、思ったより長文を書く大変さはなかったし、楽しかったです。
地理のこと、旅行のこと、地図創作のこと、見たアニメや映画、読んだ本のこと、その時々で考えたことなどを、暇があれば今後も綴りたいです。