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オタクを辞めたオタク


ついにオタク卒業(?)です。オタクとは何なのか、最後まで分かりませんでしたが、わたしは俗にいうオタクでした。

人は裏切るからと二次元コンテンツ長くを応援していました。でも、運営に裏切られました。

その後は小さなライブハウスで活動する活動者を応援していました。Twitterで交流したりすることもなく一人参戦でした。だから推しに会うまでひとりぼっちで、何となく界隈からは浮いている気がしました。周りはイベント全通が当たり前、お疲れ〜なんてお互い言い合いながらイベント名簿確認。とてもオタクとして憧れていました。
そして推しが活動を終了しました。

その後何があったのか、、、わたしはK-POPアイドルを応援していました。とても楽しかった。今までのオタク人生でいちばんお金をかけ、時間を割き、“オタク”である幸せを感じた期間でした。周りの人にも恵まれました。
運のいいことにそのグループをデビュー前から知り、応援することができました。だからこそ、妙なアイデンティティやオタクとしての何か自尊心のようなものが芽生えてしまったのかも知れません。
環境にも恵まれていました。二次元コンテンツを応援していたころは、オタクはどこか蔑まれているような大っぴらに言うことはできないような……そんな時期でした。世の中が、やれオタクだ、オタ活だと何かのオタクであることが当たり前のような時期と重なったのもわたしのオタク人生に拍車をかけました。

初めてこのグループを応援する人と語りたい!と強く感じ、Twitter(当時はまだTwitterでした)アカウントを作成。やったこともないのに“タグ”なるものを見よう見まねで投稿し、交流していました。とにかく全ての物ごとが新鮮で楽しかった。しかしながら推しは海の向こう韓国で活動するアイドル。韓国語のかの字も知らないわたしは周りの玄人(当時のわたしには周りのオタク全員が玄人に見えていました)の話を聞いて、K-POPとはなんぞや、K-POPグループを応援するとはなんぞ、とルールや掟を吸収することで精一杯でした。このときは新しいことを知り、まだまだ楽しいが上回っていました。

そして、彼らが海をはるばる渡って初来日。とても、とても近くで会えてしまい、ここから狂い始めたといっても過言ではありません。
来日が決まったのは急で夜なべしてネームボードを作りました。ハングルも分からない私は必死に検索しながら、もしかしたら推しに見てもらえるかも!なんてウキウキしながら。
行ったこともない土地に一人で、初めての夜行バスに乗って。なんだかいかにも“オタク”で浮き立つ気持ちと、不安。(このグループに出会うまで地元のイベントしか行ったことがありませんでした)
イベント会場ではデバイス上で交流していた𓏸𓏸さんに△△さん、“みんな”がいました。初めましてなのに初めましての気分でもなく、お互いお疲れさま〜なんて言い合って。わたしのライブハウス時代憧れていた“オタク”の一員になっていたのです。

画質がいいとはいえないiPhoneで必死に推しの写真や動画をとり、周りのオタクと交流。
K-POP界隈という初めてと、知り合いのいるイベントという初めての相乗効果は凄まじいものでした。

オタクというのは難儀なものですね。
推しがついにデビューしました。デビュー前から好きだったわたしたちオタク、そしてデビュー後から好きになったオタク。同じ人たちを応援しているにも関わらず、相容れない壁を感じていました。
ショーケース、初めてのファンサイン会、何から何までマウントを取らないと気が済まないような人たちも一部いました。

デビュー前から応援していた人たちもファンダムが大きくなるにつれ一人、また一人と減ってゆき、デビュー前のあの頃から残っている人たちは少数派になってしまった昨今。それも余計とわたしの秘めたマウント魂に火を灯し続けていました。あの子たちのようにすぐ乗り換えたりしないわたし。というなぞのブランディング(笑)今思うとどうでも良すぎてkidsのようですね。

イベントにも行ける範囲で足繁く通いました。見せびらかしたくもあり、隠したくもある。でもイベントには行ったという認証ショットをSNS上に投稿し、内輪だけのアカウントで感想を述べる。
段々と顔見知りも増え、わたしがイベントにいることが当たり前になっているとどこかで勘違いしていました。
幸い同ペン(同担)拒否ではなかったので大して他人のレポを見て病んだり落ち込んだりすることはありませんでしたが、対応の差に心の底ではモヤモヤしたりする日もありました。でもあの時はいい反応してたもん!などと一人で解消したり。

この頃からどこかで(心の中で)他人を貶めないと自分のオタクとしての価値が認められないと思い始めていました。“彼らを愛する私”“オタクをしている私”に酔っているだけでしょ。わたしは純粋に彼らを応援して愛しているのだ、と。

その頃のわたしに言いたいです。お金や時間を割く行為が愛以外のなんであろうかと。
どちらも愛していることには変わりがないと。ただ角度と重きを置く場所が違うだけで。


わたしのオタク人生は全てTwitter上にありました。イベント会場での写真や感想はもちろん、コンテンツを見た認証ショットや推しに伝える愛、さらには歌詞やMVの考察なんかも。
消したところで誰も困らないのに、未だにあの時投稿したあれ が価値があるかもしれないとアカウントを消す決心がつきません。
勘違いができればできるほど、オタクは楽しいものなのです。

そして、彼らを生身の人間として愛していると思っていても、わたしたちオタクはアイドルの消費者であり続けるのです。
そして消費者の需要に合わせて彼らアイドルも供給をくれるのです。
彼らアイドルがわたしたちをお金だと思っている、とは言いません。オタクとして生活する中で感じた、アイドルとオタクは不思議な絆のような何かを共有していることも確かですから。

リスペクトが足りないオタクにはリスペクトのない対応をしてきますし、配慮のあるオタクに対しては配慮のある対応をくれます。“オタクは推しの鏡”なんて、言いますがまさにその通り。

だからこそ、応援しているオタクのわたし と普段のわたしの境界線が曖昧になってくると、趣味の一つであったことに全てをかけてしまうのです。
自分のことより推しのことの方が詳しいなんておかしな現象がおきるのです。わたしは自分のことよりも推しを大事にして…では誰がわたしにその愛を注いでくれるのでしょう?

四六時中SNSをチェックし、推しの言動ひとつひとつを切り取り保存する。推しは一歩一歩成長しているのにわたしはカメラロールに写真が増えていくだけ。義務のようにセルフィーを保存し保管する。近くに居すぎるともっともっとと求めてしまうのがオタク(人間)の性。やはり嫌な部分に誤魔化しが効かなくなるのも時間の問題です。長くは続きません。

相手は“完璧な商品”ではなく“人間”ですから。

ずっと、長く応援し続けたいから。わたしは“オタク”を辞めました。

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